第86話 静かなる三十秒
八月二十九日(土) 午後七時四十分
十一曲目が——終わった。
客席の——熱狂が、まだ引かない。
一万六千の——歓声が、ホールを揺らしていた。
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ステージ袖。
その熱気とは——切り離された、静けさがあった。
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神崎が——腕時計を確認した。
視線を——上げなかった。
「予定時刻まで——三十秒」
低く——呟いた。
誰に——向けた言葉でもなかった。
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黒田が——インカムに、指を当てた。
「Aブロック——配置完了」
短い——応答が、返ってきた。
「Bブロック——配置完了」
一つずつ——確認が、積み重なっていく。
黒田の——表情は、変わらなかった。
ただ——目だけが、暗い客席の隅々まで動いていた。
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南部は——ステージ袖の、少し高い位置にいた。
そこから——客席全体が、見渡せた。
七色の——光が、波のように揺れている。
その中に——紛れる警備の配置。
南部は——インカムのマイクへ、口を寄せた。
「警備責任者——最終確認です」
「東側ゲート——問題ないですか」
短い——沈黙のあと——応答が返った。
「問題——ありません」
南部は——小さく頷いた。
だが——その頷きに、いつもの軽さはなかった。
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麻衣は——タブレットを、両手で持っていた。
タイムテーブルを——確認していた。
「十二曲目——『セブンスカラー』」
「その後——MC」
指が——画面を滑る。
いつもと——同じ作業だった。
だが——今日は指の動きが、少しだけ硬かった。
麻衣自身も——それに気づいていなかった。
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田中は——モニターの前で、配信映像を確認していた。
「回線——安定」
「同時接続数——過去最高です」
呟きながら——数字を追った。
カメラの——切り替えタイミングを、次の曲に合わせて調整した。
いつも通りの——仕事だった。
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エマは——ステージのすぐ脇にいた。
タブレットで——立ち位置図を、確認していた。
「次の——照明キュー」
「センター——桃霞さん、下手から入ります」
照明スタッフへ——小さく合図を送った。
「三秒前——」
「二」
「一」
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エマの——視線がふと、袖の奥へ向いた。
そこに——見慣れない数人の姿があった。
黒い服を——着た男たち。
エマは——一瞬、目を細めた。
(警備——だろうか)
そう——思い直した。
すぐに——タブレットへ、視線を戻した。
仕事が——先だった。
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九条冴子は——ステージ袖の一番奥にいた。
誰とも——言葉を交わさなかった。
腕を——組んでいた。
視線は——ステージの中央へ。
そこに——立つ、桃霞の背中を見ていた。
九条の——呼吸だけが、他のスタッフと違っていた。
浅く——早い。
だが——表情には、出さなかった。
いつもの——無表情。
それが——今日は少しだけ、張り詰めて見えた。
誰も——それに気づかなかった。
麻衣も——田中も——エマも。
それぞれの——仕事に、集中していた。
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神崎が——もう一度、腕時計を見た。
「予定時刻まで——十秒」
黒田が——それを聞いて、インカムへ指を当てた。
「全員——最終位置に」
短く——告げた。
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南部が——客席へ、もう一度目をやった。
一万六千の——光。
その中の——一人一人が何も知らず、この曲の——余韻に浸っていた。
南部の——喉が、微かに動いた。
何かを——言いかけて——止めた。
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九条は——静かに、目を閉じた。
開いた。
視線は——変わらず、桃霞の背中にあった。
(ここからだ)
心の中だけで——呟いた。
誰にも——聞こえない、言葉だった。
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ステージ上。
苺が——マイクを握った。
「次の——曲、聴いてください」
明るい——声だった。
客席が——応えた。
歓声が——また、湧き上がった。
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イントロが——始まった。
「セブンスカラー」
十二曲目。
七人が——それぞれの位置で、動き出した。
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袖では——誰も、動かなかった。
神崎も。
黒田も。
南部も。
ただ——それぞれの持ち場で、静かに——次の瞬間を待っていた。
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麻衣が——ふと、顔を上げた。
いつもと——何かが、違う気がした。
理由は——わからなかった。
タブレットへ——視線を戻した。
気のせいだと——思うことにした。
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田中が——モニターを確認していた。
配信の——コメント欄が、いつも以上の速さで流れていく。
「大阪最高」
「新曲もう一回聴きたい」
平和な——言葉が並んでいた。
田中は——それを見て、少しだけ安心した。
だが——その安心は、長くは続かなかった。
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袖の——奥。
黒い服の——男たちが、位置を変えた。
誰にも——気づかれないほど、静かに。
だが——確かに、動いていた。
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エマが——もう一度、その方向へ目をやった。
今度は——さっきより長く見た。
(何か——おかしい)
言葉にならない——違和感が、胸の奥に生まれた。
だが——曲が進んでいる。
照明の——キューが次々と来る。
エマは——その違和感を飲み込んだ。
仕事へ——戻った。
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ステージ上では——七人が変わらず、歌い踊っていた。
客席は——変わらず熱狂していた。
七色の——光が、揺れ続けていた。
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だが——袖の空気だけが。
確かに——変わり始めていた。
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九条は——目を開けたまま、動かなかった。
その——視線の先。
桃霞の背中——だけを見ていた。
まるで——それだけが、この空気の中で、唯一確かなもののように。
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十二曲目の——サビが、近づいていた。
客席の——歓声が、また大きくなっていく。
誰も——知らなかった。
その——歓声の裏側で。
何かが——静かに、動き出していることを。
つづく…
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