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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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86/113

第86話 静かなる三十秒

八月二十九日(土) 午後七時四十分




十一曲目が——終わった。




客席の——熱狂が、まだ引かない。


一万六千の——歓声が、ホールを揺らしていた。




---




ステージ袖。


その熱気とは——切り離された、静けさがあった。




---




神崎が——腕時計を確認した。


視線を——上げなかった。




「予定時刻まで——三十秒」




低く——呟いた。


誰に——向けた言葉でもなかった。




---




黒田が——インカムに、指を当てた。




「Aブロック——配置完了」




短い——応答が、返ってきた。




「Bブロック——配置完了」




一つずつ——確認が、積み重なっていく。




黒田の——表情は、変わらなかった。


ただ——目だけが、暗い客席の隅々まで動いていた。




---




南部は——ステージ袖の、少し高い位置にいた。


そこから——客席全体が、見渡せた。




七色の——光が、波のように揺れている。


その中に——紛れる警備の配置。




南部は——インカムのマイクへ、口を寄せた。




「警備責任者——最終確認です」


「東側ゲート——問題ないですか」




短い——沈黙のあと——応答が返った。




「問題——ありません」




南部は——小さく頷いた。




だが——その頷きに、いつもの軽さはなかった。




---




麻衣は——タブレットを、両手で持っていた。


タイムテーブルを——確認していた。




「十二曲目——『セブンスカラー』」


「その後——MC」




指が——画面を滑る。


いつもと——同じ作業だった。




だが——今日は指の動きが、少しだけ硬かった。


麻衣自身も——それに気づいていなかった。




---




田中は——モニターの前で、配信映像を確認していた。




「回線——安定」


「同時接続数——過去最高です」




呟きながら——数字を追った。


カメラの——切り替えタイミングを、次の曲に合わせて調整した。


いつも通りの——仕事だった。




---




エマは——ステージのすぐ脇にいた。


タブレットで——立ち位置図を、確認していた。




「次の——照明キュー」


「センター——桃霞さん、下手から入ります」




照明スタッフへ——小さく合図を送った。




「三秒前——」


「二」


「一」




---




エマの——視線がふと、袖の奥へ向いた。




そこに——見慣れない数人の姿があった。


黒い服を——着た男たち。




エマは——一瞬、目を細めた。




(警備——だろうか)




そう——思い直した。


すぐに——タブレットへ、視線を戻した。


仕事が——先だった。




---




九条冴子は——ステージ袖の一番奥にいた。


誰とも——言葉を交わさなかった。




腕を——組んでいた。


視線は——ステージの中央へ。


そこに——立つ、桃霞の背中を見ていた。




九条の——呼吸だけが、他のスタッフと違っていた。


浅く——早い。




だが——表情には、出さなかった。


いつもの——無表情。




それが——今日は少しだけ、張り詰めて見えた。


誰も——それに気づかなかった。




麻衣も——田中も——エマも。


それぞれの——仕事に、集中していた。




---




神崎が——もう一度、腕時計を見た。




「予定時刻まで——十秒」




黒田が——それを聞いて、インカムへ指を当てた。




「全員——最終位置に」




短く——告げた。




---




南部が——客席へ、もう一度目をやった。




一万六千の——光。




その中の——一人一人が何も知らず、この曲の——余韻に浸っていた。




南部の——喉が、微かに動いた。


何かを——言いかけて——止めた。




---




九条は——静かに、目を閉じた。


開いた。


視線は——変わらず、桃霞の背中にあった。




(ここからだ)




心の中だけで——呟いた。


誰にも——聞こえない、言葉だった。




---




ステージ上。




苺が——マイクを握った。




「次の——曲、聴いてください」




明るい——声だった。




客席が——応えた。


歓声が——また、湧き上がった。




---




イントロが——始まった。




「セブンスカラー」




十二曲目。




七人が——それぞれの位置で、動き出した。




---




袖では——誰も、動かなかった。




神崎も。


黒田も。


南部も。




ただ——それぞれの持ち場で、静かに——次の瞬間を待っていた。




---




麻衣が——ふと、顔を上げた。


いつもと——何かが、違う気がした。


理由は——わからなかった。




タブレットへ——視線を戻した。


気のせいだと——思うことにした。




---




田中が——モニターを確認していた。


配信の——コメント欄が、いつも以上の速さで流れていく。




「大阪最高」


「新曲もう一回聴きたい」




平和な——言葉が並んでいた。




田中は——それを見て、少しだけ安心した。




だが——その安心は、長くは続かなかった。




---




袖の——奥。


黒い服の——男たちが、位置を変えた。




誰にも——気づかれないほど、静かに。


だが——確かに、動いていた。




---




エマが——もう一度、その方向へ目をやった。


今度は——さっきより長く見た。




(何か——おかしい)




言葉にならない——違和感が、胸の奥に生まれた。




だが——曲が進んでいる。


照明の——キューが次々と来る。




エマは——その違和感を飲み込んだ。


仕事へ——戻った。




---




ステージ上では——七人が変わらず、歌い踊っていた。




客席は——変わらず熱狂していた。




七色の——光が、揺れ続けていた。




---




だが——袖の空気だけが。


確かに——変わり始めていた。




---




九条は——目を開けたまま、動かなかった。




その——視線の先。


桃霞の背中——だけを見ていた。




まるで——それだけが、この空気の中で、唯一確かなもののように。




---




十二曲目の——サビが、近づいていた。


客席の——歓声が、また大きくなっていく。




誰も——知らなかった。


その——歓声の裏側で。




何かが——静かに、動き出していることを。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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