第76話 届ける約束
八月十五日(土) 午後一時三十分
病院の産科病棟は——静かだった。
夏の光が——廊下の窓から、白く差し込んでいた。
麻衣は——エレベーターを降りた。
右手には——小さな紙袋があった。
果物と。
ノンカフェインの紅茶。
それから——七人が選んだ、小さなぬいぐるみ。
ナースステーションで名前を告げると、
「中村さんですね」
看護師が——笑った。
「どうぞ」
麻衣は——病室へ向かった。
ドアを——軽く叩いた。
「失礼します」
「麻衣さん!」
中村が——笑顔で迎えた。
病衣姿だった。
お腹は——以前より、少し大きくなっていた。
「来てくれたんだ」
「はい」
麻衣は——紙袋を差し出した。
「みんなからです」
「え?」
「ぬいぐるみは——向日葵さんが選びました」
中村は——袋を開けた。
黄色い小さな、ひよこのぬいぐるみだった。
思わず——笑った。
「向日葵ちゃんらしい」
「『赤ちゃんは元気が一番!!!!!!』と言っていました」
「言いそう」
病室に——笑いが広がった。
少し話したあと——
中村がベッド脇の棚から、一枚の写真を取り出した。
「見る?」
「はい」
白黒の写真だった。
丸い形が——写っていた。
麻衣は——少し近づいた。
「エコー写真ですか」
「そう」
中村は——優しく見つめた。
「まだ小さいけど、ちゃんと動いてるって」
「先生が言ってくれて」
麻衣は——写真を見た。
詳しいことは——わからなかった。
それでも——
確かに。
そこに——命があった。
「元気そうですね」
「うん」
中村は——嬉しそうに笑った。
「元気だった」
しばらく——二人で写真を見ていた。
静かな時間だった。
中村が——写真をしまった。
少しだけ——表情が変わった。
窓の外を見ながら——言った。
「ねえ、麻衣さん」
「はい」
「大阪城ホール」
少し笑った。
「見られなくて——悔しいな」
声は——明るかった。
けれど——
少しだけ、寂しそうだった。
「ステージ袖から、みんなを見るつもりだった」
「桃霞ちゃんが、どんな顔で出ていくのか」
「向日葵ちゃんが、また直前まで騒いでるのか」
「苺ちゃんが、最後にみんなを集めるのか」
「全部、見たかったな」
病室が——静かになった。
麻衣は——少し考えた。
そして——言った。
「その分まで」
中村が——顔を上げた。
「届けます」
「私たちが」
「確認します」
「記録します」
「そして」
「みんなが届けます」
中村は——麻衣を見ていた。
「大阪城ホールまで、中村先輩の気持ちも、一緒に持っていきます」
中村の目が——少し潤んだ。
「……ありがとう」
小さく——言った。
「安心した」
その時だった。
お腹へ——そっと手を当てた中村が、
「あ」
と、小さく声を上げた。
「どうしました」
「動いた」
麻衣は——少し目を見開いた。
「今?」
「うん」
「蹴った」
中村は——笑っていた。
母親の笑顔だった。
「ライブが楽しみなのかな」
「それとも」
「向日葵ちゃんのぬいぐるみが、気に入ったのかな」
二人は——少し笑った。
帰る時間になった。
麻衣は——立ち上がった。
「失礼します」
「うん」
「みんなによろしくね」
「はい」
「あと」
中村は——少し照れながら言った。
「苺ちゃんに、無理しないでって、伝えて」
「わかりました」
「向日葵ちゃんには」
少し笑う。
「ライブ前はあまり、騒がないようにって」
麻衣も——少し笑った。
「伝えます」
病室のドアを開けた。
廊下へ出る前に——
もう一度、振り返った。
中村は——窓から差し込む光の中で、
エコー写真を見ていた。
その横顔は——穏やかだった。
麻衣は——病室を出た。
静かな廊下を歩いた。
エレベーターへ向かう途中——
タブレットを開いた。
書いた。
「八月十五日。中村先輩を見舞った。」
書いた。
「赤ちゃんは元気だった。」
書いた。
「大阪城ホールを見られないことを——悔しいと言った。」
書いた。
「『その分まで届けます』と、約束した。」
書いた。
一行、空けた。
「病室にも——ゆめいろシフォンは、いた。」
書いた。
「ステージに立つ人だけではない。」
「待つ人も。」
「支える人も。」
「生まれてくる命も。」
「みんなで——大阪へ向かっている。」
タブレットを閉じた。
病院の外は——夏空だった。
大阪城ホールまで——あと十四日。
届ける相手が——また一人、増えていた。
つづく…
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