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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第75話 立つ場所

八月十二日(水) 午後七時四十分




その日のリハーサルは——終わっていた。


スタジオには——誰もいなかった。




照明は——半分だけ、残っていた。


大阪城ホールを想定した——センター照明だけが、床を照らしていた。




静かだった。




エマは——一人、スタジオへ戻ってきた。


忘れ物を取りに来ただけだった。




タブレット。


フォーメーション図。


ストップウォッチ。




机の上に——置いたままだった。




「……あった」




小さく言った。


手を伸ばそうとして——止まった。




センターに——光が落ちていた。


自然に——視線が向いた。




そこは——七人が立つ場所だった。




大阪城ホール。


一万六千人の前で。


七色が——輝く場所だった。




エマは——少しだけ、歩いた。




光の中へ。


一歩。


また一歩。




センターまで——歩いた。


そこへ立った。




誰もいない。


音楽もない。


歓声もない。




ただ——照明だけが、あった。




エマは——目を閉じた。




(ここに——立ちたかった)




その思いは——消えていなかった。




オーディションの日。


最後まで残った。


最後の二人になった。


あと一歩だった。




(ここに立っていたら)




少しだけ——想像した。




赤い衣装。


スポットライト。


歓声。




「エマーー!」




誰かが——呼ぶ声。


その景色は——今でも見える。




胸の奥が——少しだけ痛んだ。


痛みは——まだ残っていた。


消えてはいなかった。




「……でも」




エマは——小さく笑った。




「終わってない」




自分に言った。




ステージを降りたわけではない。


立つ場所が——変わっただけだった。




その時だった。


スタジオのドアが開いた。




「エマさん!」




田中だった。




「すみません!」




少し息を切らしていた。




「明日の資料なんですが!」




エマは——振り返った。


さっきまでの顔が——消えた。




「はい」




仕事の顔になった。




「すぐ行きます」




センターから——降りた。




迷わず。


振り返らず。




タブレットを持った。




「資料は、会議室ですか」




「はい!」




「わかりました」




二人は——スタジオを出た。




照明だけが——残っていた。


センターには——誰もいなかった。




だが——


エマの足取りは——軽かった。




---




翌日。


午前十時。




リハーサルが始まった。


大阪城ホール仕様の通し。




六人が——踊る。


苺は——椅子から見ていた。




エマは——ストップウォッチを持っていた。




「三秒、早いです」




通しが終わると——すぐ言った。




「桃霞さん」




「はい」




「センターに出る時——半歩だけ前です」




桃霞は——少し考えた。




「半歩」




「はい」




エマは——床へ歩いた。


立ち位置テープを指さす。




「ここが、本来の位置です」




「私は——ここでしたか」




「昨日から三センチ、前へ出ています。」




桃霞は——少し驚いた。




「三センチ」




「大阪城ホールは、客席が広いです」




エマは続けた。




「三センチでも——見え方が変わります」




桃霞は——床を見た。


もう一度——立った。




「ここですか」




「はい」




「……ありがとうございます」




エマは——少し笑った。




「仕事ですから」




「仕事でも」




桃霞は——静かに言った。




「気付ける人と——気付けない人がいます」




エマは——少しだけ照れた。




「褒めても——何も出ませんよ」




「本当のことです」




「桃霞さんって」




エマは笑った。




「真っ直ぐですね」




「そうでしょうか」




「はい」




少し間があった。




桃霞が——聞いた。




「朝比奈さん」




「はい」




「今の私は——届いていますか」




エマは——少し考えた。




いつものように。


考えてから——答えた。




「昨日より届いています」




「昨日より」




「でも」




少し笑う。




「まだ届きます」




桃霞も——少し笑った。




「厳しいですね」




「大阪城ホールですから」




「そうですね」




桃霞は——もう一度、立ち位置に戻った。




音楽が流れる。


センターへ出る。




今度は——ぴたりと止まった。




いや。


止まらなかった。


迷わなかった。




エマは——ストップウォッチを止めた。




「今です」




桃霞が——振り向いた。




「届きましたか」




エマは——頷いた。




「はい」


「届きました」




桃霞は——少しだけ笑った。


崩れた笑顔だった。




エマも——笑った。




ライバルではなかった。


スタッフでも——それだけではなかった。




同じ夢を——違う場所から叶える。


そんな距離が——二人の間に、静かに生まれていた。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121



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