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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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73/115

第73話 リーダーのいないスタジオで

八月七日(金) 午前十時




スタジオに——六人がいた。




苺は——いなかった。


苺は病院に——いた。




六人だけのスタジオは——


少し、広かった。




誰もそれを、口に出さなかった。


だが——全員が、感じていた。




エマは——スタッフ席に、静かに座っていた。


タブレットを持っていた。


今日のリハーサルを——記録する準備ができていた。




振付師が——入ってきた。


いつもと——少し違った。




表情が——静かだった。


明るくなかった。


暗くもなかった。


ただ——静かだった。




「おはようございます」




六人が返した。




振付師は——少し、間を置いた。




「……今日は、一つ——伝えることがあります」




六人が——振付師を見た。




振付師は——手に持っていた紙を、一枚ずつ配った。


フォーメーション図だった。


新しい——フォーメーション図だった。




六人が——その図を受け取った。


それぞれが——見た。




若葉が——図を見た。


最初の一秒は——普通に見ていた。


二秒目に——何かに気づいた。


三秒、四秒——見続けた。




図の中の——ある名前の動線を、追っていた。


矢印が——短かった。


他のメンバーの矢印より——はるかに短かった。


移動距離が——明らかに少なかった。




若葉は——図から目を上げた。




「……苺さんの移動距離が」




静かな声だった。




「半分以下に——なっています」




部屋が——静かになった。




振付師が——口を開いた。




「九条さんの——判断です」




誰も——返事をしなかった。




「大阪城ホール公演では——苺さんのダンス負荷を、大幅に下げます」




振付師は——続けた。




「移動量、ジャンプ、ターン——削減します」




誰も——何も言わなかった。


スタジオが——静止した。




最初に声を出したのは——向日葵だった。




「そんなの——嫌です」




振付師を——見た。




「苺ちゃんが——一番踊りたいのに」




目が——赤くなっていた。




「絶対——そんなの嫌」




声が——震えていた。


感情が——言葉より先に、来ていた。




若葉は——図を見続けていた。


何かを——計算していた。


数字を——頭の中で動かしていた。


しばらくして——呟いた。




「……合理的です」




全員が——若葉を見た。




若葉は——図を見たまま続けた。




「悔しいですが」




一拍。




「この変更なら——負荷が約四割減ります。歌も——維持できます」




声が——少し、苦しそうだった。


頭では——理解していた。


数字が——正しいことを、理解していた。


だが——心が、追いついていなかった。




空が——静かに聞いた。




「苺さんには——まだ、伝わっていませんか」




振付師が——答えた。




「まだです」




空は——少し、俯いた。




「先に——私たちが、知るんですね」




その言葉が——スタジオに、落ちた。


重かった。




苺は——今この瞬間、病室にいる。


この図を——知らない。




六人だけが——知っている。


そのことが——空の一言で、形になった。




莉恋は——何も言わなかった。


図を——見ていた。


ずっと——見ていた。


しばらくして——口を開いた。




「苺ちゃんは」




少し——間があった。




「泣くかな」




誰も——答えられなかった。


答えが——わからなかった。




泣くかもしれなかった。


泣かないかもしれなかった。




どちらも——苺だった。




桃霞は——図を見た。


一度——目を閉じた。


開いた。




「これで——いいと思います」




向日葵が——桃霞を見た。




「桃霞ちゃん」




桃霞は——向日葵を見た。




「大阪に——立てなくなる方が」




静かだった。


だが——強かった。




「もっと——辛い」




向日葵は——何も言えなかった。




その時——杏が動いた。


図を——閉じた。


机に——置いた。




全員が——杏を見た。




「九条さんは——正しい」




杏が——言った。




全員が——杏を見た。




杏は——続けた。




「苺さんは——断る」




一拍。




「絶対に」




沈黙があった。




「だから——先に決めた」




誰も——口を開かなかった。




杏は——さらに続けた。




「本人に——決めさせたら」




一拍。




「全部踊る」




また一拍。




「倒れるまで——踊る」




誰も——否定できなかった。


それが——苺だった。




苺は——自分で止まれない人だった。


誰かが——止めなければならなかった。




九条が——止めた。


それが——この図だった。




エマは——スタッフ席から、聞いていた。


何も言わなかった。




タブレットを——持ったままだった。


だが——記録していなかった。


ただ——聞いていた。




(これが——九条さんなんだ)




心の中で——思った。




(夢を守るより)


(人を守る)




オーディションの日を——思い出した。


あの日——九条は、桃霞を選んだ。


エマを——落とした。




だが——スタッフとして、声をかけた。


あれも——同じ種類の判断だった。




その人が続けられることを、選ぶ。




(この人は——いつも、そっちを選ぶ)




エマは——タブレットを、膝の上に置いた。




スタジオが——静かだった。


誰も——動かなかった。




振付師が——口を開いた。




「今日から——このフォーメーションで、練習します」




誰も——返事をしなかった。




その時——杏が、立った。




全員が——杏を見た。




杏は——全員を見渡した。




「返事は」




一言だった。




全員が——杏を見た。




「苺さんが——帰ってきた時」




杏は——続けた。




「安心して踊れるように」




一拍。




「今——やる」




桃霞が——答えた。




「はい」




若葉が——答えた。




「はい」




空が——答えた。




「お願いします」




莉恋が——答えた。




「やろう」




向日葵が——涙を拭いた。


拭いながら——答えた。




「……やる」




声が——震えていた。


だが——言葉は、揺れなかった。




「やる」




振付師が——頷いた。




「では——始めましょう」




六人が——位置についた。


音楽が——流れ始めた。




エマは——タブレットを開いた。


書いた。




「八月七日。苺さんのいないスタジオで、新しいフォーメーションの練習が始まった。」




書いた。




「杏さんが——六人を動かした。」




書いた。


一行、空けた。




「「苺さんが帰ってきた時、安心して踊れるように」という言葉を聞いた。」




書いた。




「六人が——苺さんのために踊っている。」




書いた。


最後に——一行。




「九条さんは——夢を守るより、人を守った。それが——今日、このスタジオで、六人に伝わっていた。」




書いた。


タブレットを——閉じた。




スタジオに——音楽が流れていた。


六人が——踊っていた。




苺の——いない場所で。


苺の——ために。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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