第64話 届けに行く
七月十五日(火) 午後
大阪まで——四十五日になっていた。
桃霞は——リハーサルを続けていた。
技術は——上がっていた。
動きは——覚えていた。
立ち位置も——正確になっていた。
だが——
麻衣は、気づいていた。
桃霞の笑顔が——硬くなっていた。
麻衣は——台帳を開いた。
「七月十五日。桃霞さんの笑顔に変化あり。横浜の時と比べて——硬い。崩れない。技術として正確だが——届いていない」
書いた。
「うずきの様子を確認できていない。本人に聞くべきか——迷っている」
書いた。
閉じた。
リハーサルが終わった後——
桃霞は——スタジオの端に、一人でいた。
鏡の前に——立っていた。
鏡の中の自分を、見ていた。
笑顔を——作った。
一度。
また、作った。
二度。
正確だった。
技術として——正確だった。
(正確なだけだ)
桃霞は——止まった。
横浜のあの夜——
最前列の一人に——崩れた笑顔が届いた瞬間を——
思い出した。
あの瞬間が——今、来るかどうか。
分からなかった。
横浜では——来た。
だが——
「また来る」とは——言えなかった。
あれが——一度きりだったら。
横浜だけの奇跡だったら。
その恐怖が——
大阪が近づくにつれて——
少しずつ、大きくなっていた。
桃霞は——鏡の中の自分を見た。
完璧な笑顔が——返ってきた。
正確な笑顔が——返ってきた。
崩れていなかった。
「……うずかない」
小さく、言った。
うずきが——来なかった。
横浜では——踊るほどに、うずきが強くなっていた。
今は——うずきが、来なかった。
技術として踊れていた。
だが——
うずきが、なかった。
翌日のリハーサルでも——
同じだった。
動きは——正確だった。
立ち位置も——正確だった。
笑顔も——正確だった。
全部が——正確だった。
だが——
「届いている」という感覚が——
来なかった。
若葉が——映像を確認していた。
麻衣に——近づいた。
「麻衣さん」
「はい」
「桃霞さんの今日の映像——」
若葉は——少し、間を置いた。
「「届いてる」という感覚が——来ないです」
麻衣は——頷いた。
「私も、気づいています」
「何かありましたか」
「……本人に、確認できていないです。でも、変化はあります」
若葉は——少し、考えた。
「分析すると——動きと表情が、分離しています。動きは正確だが、表情が——動きについていっていない」
「「技術として踊っている」状態、ですね」
「そうだと思います。横浜の時と——明らかに、違います」
三日後。
桃霞は——また、スタジオに残っていた。
リハーサルが終わった後。
また——鏡の前に、立っていた。
笑顔を作った。
崩れなかった。
正確だった。
「……届かない」
声に出た。
誰もいないスタジオに——
その言葉が、落ちた。
向日葵が——戻ってきた。
忘れ物をしたのか——
スタジオのドアを、開けた。
桃霞が——鏡の前にいた。
向日葵は——一瞬、止まった。
「あれ、桃霞ちゃん——」
桃霞が——振り返った。
「……向日葵さん」
「忘れ物しちゃって」
向日葵は——自分のバッグを取りに行きながら——
桃霞の顔を見た。
鏡を見ていた顔だった。
向日葵には——分かった。
「鏡で、何やってたの」
「……笑顔の確認です」
「最近、よくやってるね」
桃霞は——少し、黙った。
「……気づいていましたか」
「うん。笑顔が——最近、硬い気がして」
桃霞は——鏡を見た。
「正確には、できています」
「そうだね」
「でも——届いていない気がします」
向日葵は——バッグを持ちながら——
桃霞の横に、立った。
二人が——鏡の中に、映った。
「横浜みたいに——届けられるか、不安?」
桃霞は——少し、間を置いた。
「……もし、横浜が——一度きりだったらと、思うことがあります」
「一度きり」
「あの夜は——うずきが来ました。最前列の一人を見つけて——崩れた笑顔が届いた。でも——あれが、再現できないかもしれないと——」
「桃霞ちゃん」
向日葵が——言った。
少し、強い声だった。
桃霞が——向日葵を見た。
「また届くかどうか——じゃないよ」
向日葵は——鏡の中の桃霞を見た。
「届けに行くんだよ」
桃霞は——その言葉を、受け取った。
「届くかどうかって考えてる時点で——もう受け身になってる」
「受け身——」
「横浜の時、桃霞ちゃんは——届けに行ってたじゃん。最前列の一人を見つけて、その一人に向かっていってた。届くかどうかを、確認しながらじゃなかった」
桃霞は——少し動かなかった。
「届けに行けば——届く。それだけだよ」
向日葵は——簡単に言った。
当たり前のことを言うように——
言った。
だが——
その言葉が——
桃霞の体に、入ってきた。
(届けに行く)
「……向日葵さんは——怖くないですか」
「怖いよ」
向日葵は——すぐに答えた。
「毎回、怖い。届かなかったら、どうしようって——毎回、思う」
「どうするんですか、そのとき」
「届けに行く」
向日葵は——また言った。
「それしかないから。怖くても——届けに行く。そうすると、届く」
桃霞は——向日葵を見た。
向日葵は——笑った。
「根拠なんてない。でも——届けに行った方が、届かないよりマシでしょ」
桃霞は——少し考えた。
「……それは、そうですね」
「でしょ」
「届けに行く方が——届く確率が、高い」
「そうそう。向かっていかないと、届かない。向かっていけば、届くかもしれない。だったら——向かっていく」
桃霞は——鏡の中の自分を、見た。
正確な笑顔が——映っていた。
「……うずきます」
小さく、言った。
向日葵が——少し驚いた顔をした。
「今ので、うずいたの?」
「はい」
「何に」
「「届けに行く」という言葉に」
向日葵は——笑った。
「久しぶりに聞いた。「うずきます」」
「……最近、来ていませんでした」
「でも——今、来た」
「はい」
「じゃあ——大丈夫だ」
向日葵は——バッグを肩にかけた。
「桃霞ちゃん」
「はい」
「大阪——届けに行こう。一万六千人に向かっていこう」
桃霞は——少し、間を置いた。
「……はい」
「それだけ考えれば、いい」
向日葵は——スタジオを出た。
桃霞は——もう一度、鏡を見た。
「届けに行く」
声に出した。
誰もいないスタジオに——
その言葉が、広がった。
笑顔を——作った。
崩れた。
技術として完璧ではなかった。
だが——
うずきながら、崩れた。
「……これだ」
確認した。
これが——届く笑顔だった。
向かっているから——崩れる笑顔が。
麻衣は——翌日、台帳を開いた。
「七月十八日。昨夜、向日葵さんが——スタジオに残っていた桃霞さんに声をかけた。中身は聞いていない。だが——今日のリハーサルで、桃霞さんの笑顔が変わった。」
書いた。
「うずきが——戻ってきていた。崩れた笑顔が、また出ていた。」
書いた。
「向日葵さんが——何を言ったかは、分からない。でも、向日葵さんにしか言えない言葉を——言ったのだと思う。」
書いた。
最後に——一行。
「「届けに行く」ことと、「届くかどうかを確認する」ことは——違う。桃霞さんは——その違いを、今日、取り戻していた。」
書いた。
タブレットを——閉じた。
大阪まで——
四十二日になっていた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
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