第61話 黄色い付箋のバトン
七月九日(木) 午前
麻衣が——エマに、仕事を頼んだのは——
午前十時を少し過ぎた頃だった。
「朝比奈さん」
「はい」
「中村さんが使っていた資料棚の整理を——お願いできますか」
エマは——資料棚を見た。
壁際に——三段の棚があった。
ファイルが、隙間なく並んでいた。
「分類を変える必要はないです。中身を確認して——どのファイルに何が入っているか、リストを作ってもらえれば」
「わかりました」
エマは——すぐに、立ち上がった。
メモ帳とペンを持って——
資料棚の前に、立った。
最初のファイルを——取り出した。
背表紙に——付箋が、貼ってあった。
黄色い付箋だった。
小さな字で——書かれていた。
「照明変更は本番三日前まで。それ以降は原則不可。緊急時は藤原係長を通すこと。」
エマは——その付箋を、読んだ。
次のファイルを、取り出した。
また、付箋があった。
「音響キューシートの確定版は、必ずPDFで保存。Wordのままにしない。理由:文字化けトラブル経験済み(2022年)」
次のファイル。
「搬入順序は【照明機材→音響→衣装→小道具】この順番を崩さないこと。逆にすると通路が詰まる。」
次のファイル。
「スタッフの昼食手配は、開演五時間前。遅れると午後のリハに影響が出る。必ず確認。」
エマは——少し、手を止めた。
ファイルを持ったまま——
棚の前で、立っていた。
麻衣が——気づいた。
「どうかしましたか」
「……いえ」
エマは——少し、首を振った。
「全部に、付箋が貼ってあります」
「そうですね」
「細かい」
「中村さんは——そういう人です」
エマは——また、ファイルを確認し始めた。
だが——少し、手が——丁寧になっていた。
さっきより、ゆっくりと——
一枚一枚を、読んでいた。
三十分後。
エマは——リストを、作り終えた。
二十三冊のファイルの——
それぞれの内容を、簡潔にまとめたリストだった。
麻衣に渡した。
「こんな感じで、いいですか」
麻衣は——受け取った。
読んだ。
丁寧なリストだった。
ファイルの内容だけでなく——
それぞれの付箋のメモまで——
一行ずつ、書き写してあった。
「……付箋のメモまで、書き写したんですね」
「大事なことが書いてあると、思ったので」
麻衣は——少し、頷いた。
「そうですね。大事なことです」
「……会ったことはないのに」
エマが——小さく、言った。
「え?」
「中村さんに——まだ、お会いしていないのに」
エマは——棚を見た。
「仕事ぶりが——伝わってきます」
麻衣は——エマを見た。
「このファイルを見ただけで——どんな人か、なんとなく分かる気がします。丁寧で、先のことを考えていて、後から来る人のことを考えている人だって」
「……そうですね」
麻衣は——少し、間を置いた。
「だからこそ——今は、休んでほしいんです」
エマは——麻衣を見た。
「自分の代わりに——このファイルが、ちゃんと仕事をしてくれているから——安心して休んでほしい」
エマは——少し、黙った。
「……そういうことか」
小さく、言った。
「何がですか」
「「支える仕事」って——自分がいなくなっても、仕事が続くように——しておくことなんだなと、思って」
麻衣は——少し、驚いた。
「……そうかも、しれませんね」
「浅井さんの台帳も——そういうものですか」
麻衣は——少し、考えた。
「……少し、違います」
「どう違いますか」
「中村さんのファイルは——次の人へのバトンです。私の台帳は——自分が見てきたものを、残しておくためのものです。誰かに渡すためではなく」
エマは——少し、考えた。
「……なるほど」
「どちらも——支える仕事ですが、種類が違います」
「私は——どっちに近いですか」
麻衣は——エマを見た。
「まだ、わからないです」
「わからない、というのは」
「これから——どちらになるかは、朝比奈さんが決めることだから」
エマは——少し、笑った。
「浅井さんって——答えを言わないですね」
「確認係なので」
「確認係って、そういうものですか」
「見る仕事なので——答えを言ってしまうと、見えなくなってしまいます」
エマは——少し、考えた後——
また、笑った。
「……面白いですね、その考え方」
「そうですか」
「私の周りに——そういう人が、あまりいなかったので」
麻衣は——少し、首を傾けた。
「オーストラリアでは、違いましたか」
「オーストラリアは——どちらかというと、すぐに答えを言う文化なので」
「それが——向いていましたか」
「好きでしたよ、その文化も。でも——」
エマは——少し、棚を見た。
「「答えを言わない」人が——こういうファイルを作るんだなと思って」
麻衣は——エマの視線の先を、見た。
中村の——ファイルが、並んでいた。
「中村さんは——答えを言わない人ですか」
「……どちらかというと——気づかせてくれる人です」
エマは——頷いた。
「……会いたいですね、早く」
麻衣は——少し、微笑んだ。
「元気になったら——会えます」
「約束してもらえますか」
「……約束できるのは、中村さんだけですが」
エマは——また、笑った。
つづく…
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