第60話 新しい仲間
七月八日(水)。
午前八時十分
麻衣は——オフィスに、いつもより早く着いていた。
エマが来る前に——
机の準備を、しておきたかった。
中村のデスクの隣に——
もう一つ、デスクが用意されていた。
昨日——藤原が、手配していたものだった。
麻衣は——そのデスクを、見た。
何も置かれていない、新しいデスクが——
静かに、あった。
タブレットを開いた。
台帳を——開いた。
「七月八日。朝比奈エマ、今日から来る。」
書いた。
閉じた。
田中が——来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
田中は——デスクに着きながら、言った。
「……今日、来るんですよね」
「はい」
「何時から」
「九時、と聞いています」
田中は——時計を見た。
八時三十八分だった。
「……もうすぐですね」
田中は——何か言いかけて、止まった。
「田中くん」
麻衣が——田中を見た。
「はい」
「普通に、してください」
「普通に——」
「はい。普通に」
田中は——少し、笑った。
「努力します」
「努力しなくていいです。普通にしてください」
ドアが——ノックされた。
二回。
「はい」
麻衣が答えた。
ドアが——開いた。
朝比奈エマが——入ってきた。
ダークアッシュブラウンのロングヘアを——
低い位置で、一つにまとめていた。
少し緊張した顔をしていた。
だが——
入口で止まらなかった。
一歩、中に入った。
「おはようございます。本日からお世話になります、朝比奈エマです。よろしくお願いいたします」
声が——はっきりしていた。
緊張しながらも——
声は、しっかりしていた。
麻衣は——立ち上がった。
「おはようございます。浅井麻衣です。よろしくお願いします」
田中も——立ち上がった。
「田中聡です。よろしくお願いします」
少し、声が上ずっていた。
エマは——田中を見た。
「田中さん——SNS担当の方ですよね」
田中が——少し、驚いた。
「……知っていましたか」
「Xのアカウント、フォローしています。更新のタイミングが、いつも丁度いいなと思っていました」
田中は——少し、固まった。
「……ありがとうございます」
「私、分析するのが好きで——SNSの投稿タイミングも結構、研究していたんです」
「そうなんですか」
「はい。英語圏のファンへの発信タイミングって、時差を考えると面白くて——」
「英語圏への——」
田中の目が——少し、輝いた。
「その話——あとで、ゆっくり聞いてもいいですか」
「もちろんです」
二人が——少し、距離を縮めた。
麻衣は——その様子を、見ていた。
(普通にできているじゃないか、田中くん)
心の中で、思った。
藤原が——来た。
「おはようございます」
エマが——藤原を見た。
一秒、間を置いた。
「おはようございます。藤原係長ですよね。本日からよろしくお願いします」
藤原は——エマを、見た。
「朝比奈か」
「はい」
「来たか」
「はい。来ました」
藤原は——少し、頷いた。
「座れ」
短い言葉だった。
エマは——少し、キョトンとした顔をしたが——
すぐに——「はい」と答えた。
藤原が——前に立った。
「朝比奈に——今後の説明をする。浅井と田中も、聞いておけ」
三人が——藤原を見た。
「朝比奈のポジションは——制作アシスタント兼演出補佐見習いだ」
「はい」
エマは——メモ帳を取り出した。
すでに、ペンを持っていた。
藤原は——少し、そのメモ帳を見た。
「主な業務は——レッスンや会議のスケジュール管理。メンバーへの連絡事項の共有。台本、進行表、チェックリストの作成補助。リハーサルでのタイムキーパー。各部署との情報伝達。大阪城ホール公演に向けた資料整理と備品確認。以上だ」
エマは——メモを取りながら、頷いていた。
「英語関連の業務も——追加で任せる。海外メディアからの問い合わせ対応の補助。海外ファン向けSNSや告知文の英訳チェック。海外スタッフとのコミュニケーション。これらは——今すぐではなく、慣れてきたらだ」
「わかりました」
エマは——書き続けた。
「最初は——浅井の隣で、全部を見ながら覚えろ。自分で動けると思ったら、浅井に確認を取れ。俺に相談が必要なことは——浅井を通せ」
「はい」
「質問は」
エマは——少し、考えた。
「一つだけ、いいですか」
「言え」
「大阪城ホールの公演まで——あと何日ですか」
藤原は——少し、間を置いた。
「五十二日だ」
エマは——メモ帳に——「52」と書いた。
丸をつけた。
「わかりました。急ぎます」
藤原は——エマを見た。
「急ぐな。ただし——止まるな」
「……急がず、止まらず、ですか」
「そうだ」
エマは——少し、考えてから——頷いた。
「わかりました」
藤原の説明が終わった後——
エマは——麻衣の隣のデスクに、座った。
「よろしくお願いします」
エマが——麻衣に向かって、言った。
「よろしくお願いします」
麻衣は——返した。
「浅井さんは——確認係、ですよね」
エマが——言った。
「はい。そうです」
「確認係というのは——どんな仕事ですか。資料を読んで、大体はわかったんですが——実際に、どういうことをするのか、聞いてみたくて」
麻衣は——少し、考えた。
「……見ることです」
「見ること」
「メンバーの状態を——見る。言葉にできないことも——見る。数字にならないことも——見る。それが、確認係です」
エマは——少し、間を置いた。
「……難しそうですね」
「難しいです」
「どうすれば——できるようになりますか」
麻衣は——少し、考えた。
「解決しようとしないことです」
「解決しようとしない?」
「はい。何か気になることがあっても——すぐに解決しようとしない。まず、見る。それだけです」
エマは——メモ帳に、書いた。
「解決しようとしない。まず、見る。」
書いた後——
エマは、麻衣を見た。
「浅井さんって——優しそうですね」
麻衣は——少し、驚いた。
「そうですか」
「優しい人が——「解決しようとしない」って言うのが、意外で」
「優しくないかもしれませんよ」
「そんなことないと思います」
麻衣は——少し、笑った。
「……最初から、そんなことを言える人なんですね」
「オーストラリアで育ったので——思ったことは、すぐに言ってしまいます。迷惑だったら——」
「迷惑じゃないです」
麻衣は——首を振った。
「言ってくれた方が——見やすいです」
「見やすい、というのは」
「確認係として——言葉に出してくれる人の方が、確認しやすいです」
エマは——少し、笑った。
その笑顔が——
確かに——整っていた。
午前中——
田中が——エマに近づいた。
「朝比奈さん——さっきの話、少し聞いてもいいですか。英語圏へのSNS発信タイミングの話」
「もちろんです」
エマは——すぐに、顔を向けた。
「時差って——どう考えてますか」
田中が聞いた。
「ターゲットの国によって、変わります。英語圏だけでも——アメリカ、イギリス、オーストラリアで——全部、時間が違うので」
「そうですよね。どこを優先すべきか、迷っていました」
「今のゆめいろシフォンの英語圏ファンの分布って——どこが多いか、データありますか」
「……実は、まだ細かく分析できていなくて」
「じゃあ——一緒にやりましょうか。配信の視聴ログとSNSのアクセス元を合わせれば——大体の分布が出ます」
田中は——少し、固まった。
「それ——できますか、今すぐ」
「やってみます。アカウントのアクセス権を貰えれば」
田中は——麻衣を見た。
「麻衣さん——」
「藤原係長に、確認してください」
「はい」
田中は——藤原のデスクに向かった。
エマは——パソコンを立ち上げながら——
画面を、確認し始めた。
麻衣は——その様子を、見ていた。
(早い)
思った。
初日の午前中に——
もう、動いている。
昼食の時間になった。
田中が——エマに声をかけた。
「朝比奈さん——昼、一緒にどうですか」
「いいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます。この辺——まだ全然、わからなくて」
「案内しますよ。近くに——いい蕎麦屋があって」
「蕎麦——好きです。オーストラリアいる時、食べられなかったので」
二人が——出ていった。
藤原は——その背中を、見ていた。
麻衣も——その背中を、見ていた。
「……意外と、上手くいきそうですね」
麻衣が——小さく、言った。
藤原は——少し、鼻を鳴らした。
「田中は——仕事の話になると、普通に話せるんだ。あいつは、仕事が好きだからな」
「そうですね」
「朝比奈が——仕事の話から入ったのが、良かったんだろう」
麻衣は——頷いた。
「朝比奈さん——頭が、動きますね」
「オーディションで最終まで残った子だ。頭が動くのは——当然だ」
「係長」
麻衣が——藤原を見た。
「なんだ」
「朝比奈さんを見て——どう思いましたか」
藤原は——少し、間を置いた。
「……思った通りの子だった」
「思った通り、というのは」
「九条さんが——惜しんだ理由が、わかった」
それだけ言って——
藤原は、資料に向かった。
麻衣は——その横顔を、見た。
険しい表情が——
少し、和らいでいた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




