第57話 中村がいない朝
七月六日(月) 午前八時十五分
麻衣は——オフィスに、最初に着いた。
中村からの——昨夜のメッセージが——
頭から離れなかった。
「今夜、少し体調を崩しました。大丈夫です。明日話します。」
それだけだった。
返信は——なかった。
朝になっても——なかった。
麻衣は——デスクについた。
タブレットを開いた。
台帳を——見た。
昨夜書いた一行が——あった。
「明日、ちゃんと聞く。」
麻衣は——その文字を見ながら——
中村が、出社するのを待った。
八時三十五分
田中が来た。
「おはようございます」
いつもの声だった。
「おはようございます」
麻衣は答えた。
田中は——デスクについた。
パソコンを開いた。
横浜のライブのSNS反響を——確認し始めた。
「すごいことに、なってます」
田中が——画面を見ながら言った。
「トレンド、まだ続いてます」
麻衣は——少し、頷いた。
返事が——少し、上の空だった。
「麻衣さん、どうかしました?」
「……いえ」
麻衣は——首を振った。
中村のことを——田中に話していいかどうか——
迷っていた。
八時五十五分。
藤原が——来た。
いつもより——少し、表情が硬かった。
「おはようございます」
田中が言った。
藤原は——答えなかった。
デスクの前に——立ったまま、動かなかった。
麻衣は——その様子に——気づいた。
「係長」
「……浅井」
藤原が——麻衣を見た。
「中村が——休む」
麻衣は——息を止めた。
「体調不良だ」
「……どのくらいの体調不良ですか」
藤原は——少し、間を置いた。
田中も——画面から目を上げた。
「昨夜——救急車で運ばれた」
部屋が——静かになった。
「切迫流産、だそうだ」
その言葉が——出た瞬間。
田中の表情が——固まった。
「……流産? 中村さんが——妊娠してたんですか」
田中の声が——上ずっていた。
「知らなかったのか」
「知りません。全然——知りませんでした」
田中は——麻衣を見た。
「麻衣さんは——知ってたんですか」
麻衣は——少し、間を置いた。
「……気づいていました」
「いつから」
「一週間前から——様子が、いつもと違うと思っていました」
藤原は——麻衣を見た。
「知っていたのか」
麻衣は——藤原を見た。
「——ライブの後、本人から聞きました」
藤原は——少し、目を伏せた。
「……俺は——昨夜、中村の交際相手から連絡を受けて、初めて知った」
田中が——驚いた声を出した。
「交際相手って——」
「中村が——個人的に、お付き合いされている方だ」
藤原は——簡潔に答えた。
「結婚はしていない。だが——子供は、授かった」
田中は——何度も、頷いた。
頷きながら——まだ、混乱していた。
「……すみません。整理する時間をください」
「わかった」
藤原は——田中を見た。
「驚くのも、無理はない」
藤原は——
オフィスの中央に立った。
「もう一つ——伝えることがある」
藤原は——続けた。
「中村が休む、ということ以外にも——大きな話だ」
麻衣と田中が——藤原を見た。
藤原は——資料を、配った。
「次のライブ会場は——大阪城ホールだ」
田中が——資料を見た。
「横浜の次は——大阪ですか」
「そうだ」
「日程は」
「八月二十九日」
田中の目が——資料の日付を、追った。
「……二ヶ月、ないですね」
「ない」
田中は——少し、口を開けたまま——止まった。
「中村さんが抜けた状態で——あと五十四日で——大阪城ホールの準備をするんですか」
「そうだ」
田中は——何も言えなかった。
混乱が——まだ、続いていた。
朝から——情報量が、多すぎた。
中村の妊娠。
切迫流産。
大阪でのライブ。
五十四日という期間。
田中は——頭を抱えた。
「……今日、情報量が、多すぎます」
「わかっている」
藤原は——田中を見た。
「だが——止まっていられない」
田中は——息を、深く吸った。
吐いた。
「……わかりました。やります」
「よし」
藤原は——続けた。
「新要素は——三つだ」
資料の——次のページを、示した。
「センター交代制ユニットパート。全員が主役、というテーマだ」
「七人体制初の——完全新曲」
「ライブ終盤で——全国ツアー発表」
田中は——一つ一つを——確認した。
「全国ツアー——」
「そうだ。大阪の後——全国を回る」
田中の目が——少し、輝いた。
混乱の中に——
ファンとしての興奮が——少し、混じった。
「……全国ツアー、本当にあるんですね」
「ある」
田中は——少し、笑った。
「すみません。今、ちょっと——嬉しくなりました」
藤原は——田中を、見た。
「いい」
それだけ言った。
「メンバーには——これから九条さんが、直接説明する」
藤原は——続けた。
「俺たちは——裏側を支える。中村が抜けた分も——埋めなければならない」
「具体的には——どうしますか」
麻衣が聞いた。
「照明と音響の一部は——既存のチームに、権限を委譲する。動線管理は——」
藤原は——少し、間を置いた。
「俺が——引き継ぐ」
「係長が、ですか」
田中が——驚いた声を出した。
「他に——適任がいない」
藤原は——簡潔に言った。
「中村が——一人で把握していたことが、多すぎる。誰か一人に——肩代わりさせるのは、無理がある。俺が——現場により深く、入る」
麻衣は——藤原を見た。
その言葉の中に——
普段の藤原とは——少し違う、何かがあった。
説明を終えた後——
藤原は——自分のデスクに戻った。
座らずに——立ったまま、考えていた。
中村が——抜ける。
大阪のライブまで——五十四日。
演出の中核を——失う。
(誰に、何を任せる)
頭の中で——人員配置を、組み立て始めていた。
照明チームのリーダーに——
中村の権限の一部を、委譲する。
音響は——既存のチームで、回せる。
問題は——動線管理だった。
中村が——一人で把握していた部分が、多かった。
それを——自分が、引き継がなければならない。
(俺が、やるしかない)
藤原は——結論を出した。
自分が——現場に、もっと深く入る。
今までより——多くの時間を、割く。
それしかなかった。
だが——
頭の片隅に——別の考えが、あった。
中村が——壁に手をついていた姿を——
ライブの夜、一瞬だけ——見ていた。
気づいていながら——何もしなかった。
(気づいていながら、見過ごした)
その自覚が——藤原の中に、あった。
口には出さなかった。
出す必要が——なかった。
「俺が引き継ぐ」と言った言葉の裏に——
その自覚が、あった。
麻衣は——
タブレットを、開いた。
台帳を——開いた。
書こうとした。
手が——少し、止まった。
何から——書けばいいか、分からなかった。
「中村先輩——救急搬送。切迫流産。」
書いた。
「交際相手の方がいた。結婚していない。子供は授かっていた。今は——無事だが、危険な状態。」
書いた。
「私は——気づいていた。でも——本人から聞くまで、何も言わなかった。それでよかったのか、わからない。」
書いた。
少し、間を置いた。
「大阪城ホールでの——次のライブが決まった。五十四日後。」
書いた。
「中村先輩がいない状態で——準備が始まる。」
書いた。
最後に——一行。
「無事でいてほしい。中村さんも——赤ちゃんも。」
書いた。
タブレットを——閉じた。
麻衣は——窓の外を見た。
七月六日の朝の——横浜が、見えた。
昨日までとは——違う朝だった。
横浜アリーナのライブが——終わった。
七人が——新しいステージに、向かおうとしていた。
その裏側で——
中村が——倒れた。
麻衣は——その両方を——
同時に、抱えている自分に——気づいた。
確認係として——
七人の状態を、見続けてきた。
スタッフの状態も——
確認すべきだったのではないか。
中村が——壁に手をついていた瞬間を——
何度も、見ていた。
「今夜が終わったら、話す」
中村は——そう言っていた。
麻衣は——その言葉を、待っていた。
待つことが——正しかったのか。
もっと早く——何か、言うべきだったのではないか。
麻衣は——その問いに——
すぐには、答えが出なかった。
午後一時。
麻衣は——病院に向かう準備をしていた。
タブレットと——花を一束。
藤原が——麻衣のデスクに来た。
「浅井」
「はい」
「行ってきてくれ」
「はい」
藤原は——少し、間を置いた。
「……仕事の話は、するな」
「わかっています」
「中村が——必要としているものを、聞いてきてくれ」
麻衣は——頷いた。
「行ってきます」
オフィスを——出た。
藤原は——
麻衣の背中を、見送った。
それから——自分のデスクに戻った。
中村の——演出資料を、開いた。
照明の配置図。
音響のキューシート。
動線のメモ。
全部に——中村の字が、書き込まれていた。
藤原は——その字を、見た。
丁寧な——字だった。
「……お前がいないと、困るな」
小さく、呟いた。
誰にも、聞こえない声で。
それから——
資料を、整理し始めた。
五十四日で——大阪城ホールに対応する。
中村の——分まで。
七人の——分まで。
藤原は——その仕事に——
向かい始めた。
田中は——
自分のデスクで——
SNSの反響を——確認しながら——
中村のことを、考えていた。
(中村さん、知らなかった)
知らなかった、ということが——
少し、寂しかった。
職場で——一緒に働いてきたのに。
気づけなかった、ということが——
少し、悔しかった。
田中は——スマートフォンを取った。
中村に——メッセージを、打とうとした。
止まった。
何を書けばいいか、分からなかった。
「お大事に」
それだけ、書いた。
送るかどうか——迷った。
少し、考えてから——
送信した。
それから——
仕事に戻った。
大阪のライブに向けて——
田中にできることを、考え始めた。
オフィスは——
いつもと同じように、動いていた。
だが——
いつもとは、違う朝だった。
中村が——いない朝。
新しいライブへ——動き出す朝。
それぞれが——それぞれの方法で——
今日という日に——向かい合っていた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




