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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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54/55

第54話 昨日は確かにあった

橘向日葵




午前八時。


向日葵は——目が覚めた。


最初に——声を出そうとした。


出なかった。




「あ」




声にならない「あ」が出た。


向日葵は——天井を見た。




「……完全に枯れてる」




声にならない声で——言った。


笑った。


声が出ないのに——笑った。




昨夜、バックステージで泣きながら叫んでいた。




「ありがとうございます!!!!全部のスタッフさん!!!!」




あれで——完全に枯れた。


向日葵は——スマートフォンを取った。


田中にLINEを送った。




「声が完全に枯れました。でも後悔してません」




三秒で返信が来た。




「わかってました(笑)昨夜のバックステージで、予想していました」




「笑わないでください」




「大事にしてください。はちみつ買いましたか」




「買ってない」




「買ってください、今すぐ」




向日葵は——スマートフォンを置いた。


声が出なかった。


だが——


胸の中は——満ちていた。




向日葵は——声が出ないまま——


昨夜を思い出した。




一万七千人が待っていてくれていた。


アンコールで出た瞬間——「来た!!!!」という声が来た。


あの声が——まだ、胸の中にあった。


向日葵は——声にならない声で——言った。




「……また会いに行く」




声は出なかった。


でも——言えた。


起き上がった。


はちみつを——買いに行くために。




---




霧島若葉




午前八時十五分。


若葉は——パソコンを開いていた。


昨夜のライブデータが——画面に出ていた。




配信の再生数。


ピーク時の同時接続数。


各曲のSNS投稿数の推移。


エンゲージメント率。


数字が——並んでいた。




若葉は——それを見た。


確認した。


分析しようとした。


手が——止まった。


数字を見ていた。




「届いていますか」の曲のSNS投稿数が——


他の曲より飛び抜けていた。


その数字を——若葉は見た。


数字として——確認した。




だが——


数字より先に——


「届いてる!!!!」という声が来た。


一万七千人の声が——


数字を見ている今の若葉に——


来た。




若葉は——画面から目を上げた。


窓の外を——見た。


七月の朝の空が——見えた。


青かった。


昨日と同じ青だった。


だが——


昨日とは——違う朝だった。




若葉は——パソコンを見た。


数字が並んでいた。


「届いていますか」の投稿数が——飛び抜けていた。


若葉は——その数字の横に——メモを書いた。




「数字以上のものが——あった夜。」




それだけ書いた。


分析しなかった。




数字以上のものを——数字にしようとしなかった。


そのまま——置いておいた。


パソコンを閉じた。


今日は——ここまでにした。




---




御堂杏




午前八時三十分。


杏は——窓を開けた。


朝の空気が——入ってきた。


七月五日の朝の空気が。




嗅いだ。


昨日とは——違う匂いだった。


昨日の朝——ライブに向かう朝の空気とは——


違う種類の空気が、来ていた。




「終わった後の朝」の匂いだった。


静かな匂いだった。




だが——


昨夜の匂いが——まだ、どこかに残っていた。


一万七千人の熱気の残像が——


杏の記憶の中に——あった。




杏は——窓の外を見た。


みなとみらいが——朝の光の中にあった。




観覧車が——止まっていた。


夜は回っていた観覧車が——


朝は止まっていた。


杏は——その止まっている観覧車を見た。




「……今夜は回る」




小さく言った。


今夜も——観覧車は回る。


昨夜と同じように——回る。




だが——


昨夜の観覧車の下を歩いた一万七千人は——


もうここにはいなかった。


それぞれの場所に——帰っていた。




それでも——


杏の記憶の中には——


一万七千人の匂いが——残っていた。




「良い匂いだった」




杏は——確認した。


昨夜という日の匂いが——良かったことを。


窓を——閉めた。




---




白石莉恋




午前九時。


莉恋は——


ラベンダーパープルの衣装の前に——立っていた。


スタッフが持ってきてくれた——


第二衣装のラベンダーパープルが——


部屋に、あった。


次のライブまで——自分で保管することになっていた。




莉恋は——


衣装を手に取った。


シフォンの部分を——丁寧に触れた。


しわが——少しあった。


昨夜——踊ったしわが。


莉恋は——しわを伸ばした。


丁寧に——伸ばした。


伸ばしながら——


昨夜を思い出した。




カバーを開けた瞬間を。


「悪くない」と言った瞬間を。


「かもしれない」がなかった「悪くない」を。


涙が出た瞬間を。




一万七千本のラベンダーパープルが——一斉に点いた瞬間を。


莉恋は——しわを伸ばしながら——


その瞬間を——もう一度、受け取っていた。




衣装を——たたんだ。


丁寧に——たたんだ。


ラベンダーパープルが——きれいな四角に——なった。


莉恋は——それを見た。




「……悪くない」




また言った。


今度は——衣装に向けて言った。


自分のラベンダーパープルに向けて——言った。


衣装は——答えなかった。


きれいな四角のラベンダーパープルが——そこに、あった。




莉恋は——それを——大事にしまった。


次のツアーまで——大事にしまった。




---




櫻井桃霞




午前九時三十分。


桃霞は——目が覚めた。


天井を見た。


自分の部屋の天井だった。


いつもと——同じ天井だった。




今朝の桃霞は——


その天井を、少し長く見た。




(昨夜——あったことは)




確認しようとした。


一万七千席の空間が。


苺の手が。


五人を制圧した十五秒が。


最前列の一人に届いた笑顔が。




「届いていますか」という問いが。


「届いてる」という声が。


莉恋と目を合わせた瞬間が。


「次のライブが決まった」という藤原の言葉が。




全部——確認しようとした。


確認できた。


あった。


全部——あった。


昨夜は——現実だった。


どこか——現実感がなかった。




今朝の部屋は——静かすぎた。


昨夜の一万七千人の声とは——


全く違う静けさが——部屋にあった。




桃霞は——ベッドの上で——


その静けさを確認した。


静かだった。


昨夜と——正反対の静けさが——今朝はあった。




起き上がった。


窓を開けた。


朝の空気が来た。


七月五日の——普通の朝の空気が。




桃霞は——その空気を、受け取った。


普通の朝だった。


昨夜という非常なものの後の——普通の朝だった。




桃霞は——スマートフォンを取った。


SNSを開いた。


タイムラインに——投稿が流れていた。




「届きました。ありがとう、桃霞ちゃん。」


「今夜という日を——忘れない。」


「ピーチピンクのペンライト、また持っていきます。」




桃霞は——その投稿を見た。


一つ一つ——読んだ。


処理しようとした。


できなかった。


処理しなかった。


受け取った。




うずきが——来た。


朝から——うずきが来た。




(まだ——続いている)




確認した。


昨夜のうずきが——今朝も続いていた。


消えていなかった。


消えない何かが——今朝も、体の中にあった。




桃霞は——スマートフォンを置いた。


窓の外を見た。


七月五日の朝が——広がっていた。


昨日と同じ空が——あった。


昨日と同じ横浜が——あった。




今日の桃霞は——昨日の桃霞ではなかった。


昨夜という日が——今日の桃霞の中に——あった。




「知り始めた」




麻衣に言った言葉を——思い出した。


笑い方を——知り始めた。


届け方を——知り始めた。


まだ途中だった。


知り終わっていなかった。




だから——


次のライブがある。


次の一万七千人がいる。


次の「届く瞬間」が——来る。




桃霞は——窓を閉めた。


部屋が——静かだった。


昨夜の残響は——聞こえなかった。




だが——


体の中に——あった。


うずきとして——あった。


消えない何かとして——あった。




桃霞は——


今日の最初の動作を——考えた。


レッスンは——明日からだった。


今日は——自由だった。


桃霞は——メモ帳を取り出した。


書いた。




「七月四日。届いた。」




それだけ書いた。


台帳ではなかった。


自分のメモ帳だった。


誰にも見せない——自分のための記録だった。




「届いた。」




という三文字を——書いた。


書いてから——


うずいた。




「……うずきます」




部屋に向かって——言った。


誰もいない部屋に向かって——言った。


昨夜——何度言ったかわからない言葉を——


今朝も——言った。




そして——


それが——


普通の朝だった。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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