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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第53話 次へ向かう朝

控室




空。


莉恋。


向日葵。


若葉。


杏。


桃霞。


苺。




七人が揃った。


誰もすぐには話さない。


エアコンの送風音だけが、静かに響く。


ライブを終えた熱気が、まだ部屋の中に残っていた。


圧迫感ではない。


空気そのものの密度が、少しだけ重い。


それぞれが、今夜という時間を胸に抱えたまま立っていた。




最初に口を開いたのは向日葵だった。




「……桃霞ちゃん、どうだった?」




桃霞は少し考える。




「……処理できていないことが、多くありました」




「それって、いいこと? 悪いこと?」




「……まだ判断できません」




「そっか」




向日葵は、天井を見上げて笑った。




「でも、それでいい気がする」




「……なぜですか」




「全部わかったら、そこで終わっちゃいそうだから」




短い言葉だった。


けれど、その場の誰も否定しなかった。




---




空が静かに続ける。




「今夜、届いてました」




視線が集まる。




「最後の方。誰かに向けようとしてた声でした」




桃霞は頷く。




「……対象は、特定できませんでした」




「うん。でも、ちゃんと向いてました」




それだけ言って、空は口を閉じた。




沈黙が落ちる。


その沈黙は、居心地が悪いものではなかった。




---




部屋の隅で、莉恋がドライヤーのスイッチを止めた。


送風音が消える。


鏡越しに桃霞を見る。




「今日の笑顔、綺麗だったよ」




一言だけ。


飾らない言葉だった。




桃霞は少し目を見開き、小さく頭を下げた。




「……ありがとうございます」




莉恋はそれ以上何も言わず、もう一度ドライヤーの電源を入れた。


柔らかな風の音が、部屋に戻る。




---




杏はテーブルの紙コップに水を注ぎ、桃霞へ差し出した。




「喉、乾いてるでしょ」




「……はい」




受け取る。




「ありがとうございます」




冷たい水が喉を通る。


その感覚だけが、妙に鮮明だった。




杏は微笑む。




「今夜は、考えすぎなくても大丈夫」




「匂いでもわかる?」




向日葵が冗談めかして聞く。




杏は少し笑った。




「安心した空気は、ちゃんと違うよ」




部屋の何人かが頷いた。




---




若葉が椅子に腰掛けたまま口を開く。




「一つだけ聞いていいですか」




「……はい」




「自分を見に来た人たちの存在、わかっていましたか」




桃霞は静かに答えた。




「……ピーチピンクのペンライトの数は、把握していました」




「どう感じましたか」




少し長い間。




「……重かったです」




「責任、という意味ですか」




「定義は未確定です」




さらに一拍。




「ただ、無視できない存在だと、認識しました」




若葉は満足そうに頷く。




「それで十分です」




---




苺が全員を見渡した。




疲れた表情なのに、目だけは明るかった。




「明日一日休んで、明後日からまた練習だよ」




「うん」




「了解」




返事が重なる。


桃霞だけが、少し遅れて口を開いた。




「……はい」




苺は笑う。




「桃霞ちゃん、そういう時は“うん”でいいよ」




桃霞は少しだけ考えたあと、




「……うん」




と言った。


ぎこちない。




そのぎこちなさに、向日葵が吹き出す。




「固い固い!」




「……改善します」




「だから、改善しなくていいって!」




笑いが広がった。




今度は桃霞も、ほんの少しだけ口元を緩めた。




---




部屋が静かになった頃。


窓の外には横浜の夜景が広がっていた。


観覧車は変わらず回り続けている。


一定の速度で。


一定の軌道で。




桃霞はその光を見つめた。


胸の奥のざわめきは、消えていない。


むしろ、ライブ前よりも静かに大きくなっている。




分類できない。


言葉にもならない。


それでも以前ほど、戸惑いはなかった。


消そうとは思わなかったからだ。


小さく息を吐く。




明日も残るかもしれない。


残るなら、また向き合えばいい。




その隣に立った苺は、窓の外を見ながら静かに言った。




「焦らなくていいよ」




桃霞は横を向く。




「今日の答えは、今日出さなくてもいい」




その言葉に、桃霞はゆっくり頷いた。




「……はい」




窓の向こうでは、観覧車が夜空に光の輪を描き続けていた。




そして控室の中でも、七人はそれぞれの余韻を胸に抱えながら、次の一歩へ向かう静かな時間を過ごしていた。





七月五日の朝




春日苺




午前七時十二分。


苺は——起きていた。


正確には——


六時前から起きていた。




目が覚めた瞬間から——


頭が動いていた。


昨夜のことではなかった。


次のことが——来ていた。


次のライブに向けて——




何を強化するか。


桃霞のダンスの精度を、さらに上げるには。


七人のフォーメーションで——まだ試していない形がある。


莉恋のラベンダーパープルとしての立ち方を——もう少し確立する時間が必要だ。




苺は——ノートを開いた。


ベッドの上で、ノートを開いた。


書き始めた。


次のレッスンメニューを。


書きながら——


手が少し、止まった。




昨夜の最後のポーズが——頭をよぎった。


七人で横一列に並んだ場面が。


七色のラインが照明に浮かんだ場面が。




苺は——ノートから目を上げた。


天井を見た。


五秒——見た。




それから——また、ノートに目を戻した。


書き続けた。


余韻は——胸の中にあった。


だが——苺は書き続けた。




止まらなかった。


止まることが——苺のやり方ではなかった。


前に進むことが——苺のやり方だった。




「次のライブ」という言葉が——


昨夜の藤原から来ていた。




七人で——次へ向かう。


それが——わかっているから——


今朝から——動ける。


苺は、書き続けた。




---




水瀬空




午前七時三十分。


空は——起きていた。




起きた最初に——喉を確認した。


声が——まだあった。


昨夜——最後まで歌い切った喉が——


今朝も、まだあった。


良かった、と思った。




空は——洗面台の前に立った。


うがいをした。


丁寧に、うがいをした。


ぬるいお湯で——喉を温めた。


はちみつを一口なめた。


いつものケアを——丁寧にやった。




それが終わってから——


スマートフォンを開いた。


配信のコメントが——昨夜から続いていた。




「声、届いていました」


「三階席にいたけど、聞こえました」


「配信越しでも、届いていました」




空は——そのコメントを読んだ。


一つ一つ、読んだ。


読みながら——


「届く音」を確認した昨夜を、思い出した。




一万七千人が作る空間で——


自分の声が届いていた。


その確信が——昨夜、来ていた。


コメントが——その確信を、裏付けていた。




空は——コメントを読み続けた。


読みながら——


また、歌いたいと思った。


次のライブで——また届けたいと思った。




喉のケアをしながら——


そう思っていた。





つづく---




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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