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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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52/66

第52話 ステージの裏、それぞれの温度

ライブ終了後。


バックステージ。


人の流れ。


その中を、九条が歩く。


止まらない。


視線も、逸らさない。




「莉恋。よかったわよ」




一拍。




「ありがとう」




それだけ。


通り過ぎる。




莉恋は振り返らない。




「……はい」




短い返答。


だが、芯がある。




九条は、次に桃霞の前で止まる。




視線。


上から下まで。


評価ではない。


——計測。




「あなたはまだ、自分の答えを持っていない」




桃霞が、わずかに反応する。




「……はい」




「なぜ笑うのか。誰のために踊るのか」




間。




「あなた自身が、まだ知らない」




沈黙。


逃げ場はない。




「だから——」




九条が、わずかに笑う。




「私には、まだ使い道がある」




断定。


それ以上は言わない。


去る。




桃霞は、その場に残る。


言葉を分解する。


理解できる部分。


できない部分。




特に——


“なぜ笑うのか”。


未解決。


処理不能。




視線が動く。


窓の外。




観覧車。


回り続けている。


同じ動き。


同じ軌道。




桃霞は、それを見ていた。




答えは、まだない。


——探す必要がある。


その事実だけが、残っていた。




バックステージ控室




熱が、まだ残っていた。


照明の熱ではない。


音の余熱でもない。


それぞれの身体に残った、別々の温度だった。




ドアが開く。


最初に入ったのは、向日葵だった。


勢いのまま、ソファへ倒れ込む。




「……死ぬかと思った」




天井を見たまま、動かない。




一拍。




「嘘。死ねない。最高すぎて」




誰も笑わない。


否定もしない。


その矛盾が、正確だったからだ。




若葉が入る。


額の汗をタオルで押さえながら、すでにスマートフォンを開いている。




「トレンド、三位」




視線は画面のまま。




「ピーチピンクと桃霞さんの名前、想定より早く結びついてる」




「今はいいって、数字は」




向日葵が、寝転んだまま言う。




若葉は一瞬だけ止まり、画面を閉じる。


閉じる直前に、もう一度だけ確認する。


——十分だ。


そう判断して、何も言わなかった。




杏が入る。


静かに。


ドアの音も、ほとんどない。


鏡の前に座り、クレンジングを取る。


指先が、頬に触れる。


一度だけ、止まる。




「……莉恋」




小さく。




「匂いが、変わってた」




誰も反応しない。




杏は鏡越しに、自分の目を見た。




ステージ後半、確かに変わった。


桃霞。莉恋。


どちらも——最初と違った。


意味は、まだ定義できない。




苺が入る。


タオルを頭に被ったまま、全員を一度だけ見る。


人数を確認する癖。




「空ちゃんは?」




「シャワー」




若葉。




「莉恋ちゃんは?」




「まだ」




一拍。




「桃霞ちゃんは?」




「廊下」




苺は頷く。


タオルを外すが、座らない。


壁に背を預け、目を閉じる。




ステージを、逆順で辿る。


ラストの合唱。


サビのズレ。


フォーメーションの微修正。


桃霞の変化。


莉恋の変化。


すべて、記憶している。




「……今日、よかったと思う」




目を閉じたまま。




「全員が」




向日葵が小さく頷く。




若葉は沈黙で肯定する。




杏は手を止めない。




シャワールーム




空は、最初に入っていた。


水音が、肩に落ちる。


音が、狭くなる。


反響が近い。


それでも、耳を澄ませる。


習慣だった。




今夜の音を、順に取り出す。


合唱。


歓声。


苺の声。


莉恋のソロ。




そして——


桃霞の、変化。




「……聞こえてた」




小さく。




「最後、変わってた」




言語化はできない。




ただ。


“音ではない何か”が、近づいていた。




空は目を閉じる。


水が、頬を流れる。




廊下(莉恋)




控室の扉の手前で、止まる。


入らない。


背を壁につける。


人の流れから、半歩だけ外れた位置。


ここなら、見られない。




——見せなくていい顔になる。




呼吸を整える。


四拍で吸って、四拍で止める。


八拍で吐く。


喉が乾いている。


水は飲まない。


今飲めば、むせる可能性がある。




(この状態で人前に出るのは、リスク)




そう判断して、動かない。


スマートフォンには触れない。


さっき見た。


一つで十分だった。




“よかった”




その一行。


報酬としては、軽すぎる。


今はそれで、維持できる。




目を閉じる。


ステージを再生する。


昼。


夜。


本番。


三つを並べる。




差分を取る。


——自分の変化は、把握できる。


問題は、そこではない。




桃霞。


後半。


視線。


技術は同じ。


精度も同じ。




だが。




(……何が違った?)




答えが出ない。


心拍は安定している。


乱れていない。


なのに、息が浅い。




(制御できてる)




確認する。




(……でも)




言葉が出ない。




あの瞬間。


——“見られた”と感じた。




観客ではない。


カメラでもない。


もっと近い。


一点から。




(……私を?)




否定できない。


肯定もできない。


定義不能。




それが、残る。


それが——不快ではない。


そこに、もう一段の違和感がある。




(……何)




わからない。


わからないまま、残る。




「莉恋ちゃん、シャワー空いたよ」




苺の声。




目を開ける。




「……はい」




壁から背を離す。




一歩。


足音が、規則正しく鳴る。




——制御は戻っている。




廊下(桃霞)




壁の前。


動かない。


九条の言葉を、分解している。




「なぜ笑うのか」




未解決。




「誰のために踊るのか」




未解決。


だが。


今夜発生した反応は残っている。




観客の波。


拍手。


ピーチピンク。


それぞれに、異なる信号。




統合できない。


分類不能。




「……うずき」




初めて、言語を与える。


同じではない。


過去のそれと。


種類が違う。


違うという事実だけが確定する。




「桃霞ちゃん」




苺。




「控室、来ないの?」




「……今、行きます」




苺は待つ。


歩き出すまで。




並ぶ。


廊下を進む。


足音は、一人分。




苺のものだけが響く。


桃霞の足音は、ない。




苺は何も言わない。





つづく---




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121



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