第51話 余韻
午後九時四十七分。
横浜アリーナの扉が——静かに開いた。
一万七千人が、夜の横浜へ流れ出していく。
ライブは終わった。
けれど、その夜を胸から降ろせる人は、まだ一人もいなかった。
最初に外へ出た人たちは、思わず足を止めた。
七月の夜風が頬を撫でる。
照明に満たされた会場とは違う、少し湿り気を帯びた空気だった。
その瞬間、誰もが理解する。
終わったのだ。
だが同時に胸の奥では、何かがまだ続いていた。
名前を付けられない熱が、静かに残っていた。
和田さくらは、出口を出ると夜空を見上げた。
手には、電源を切ったラベンダーパープルのペンライト。
光は消えている。
それでも、不思議と暗くは感じなかった。
遠くでは観覧車がゆっくり回り、その明かりが夜景を彩っている。
「……終わったんだ」
独り言のように呟く。
胸には、莉恋の笑顔が残っていた。
チェリーピンクだった頃の姿も。
ラベンダーパープルを纏った今夜の姿も。
どちらも大切だった。
どちらも、莉恋だった。
さくらはペンライトを丁寧にバッグへしまう。
そして、アリーナを一度だけ振り返った。
「また会いに来るね」
小さく笑い、駅へ向かって歩き始めた。
人の流れは途切れない。
ペンライトを肩に掛けた人。
首にタオルを巻いたまま笑い合う人。
その場で集合写真を撮る人。
静かに夜景を眺める人。
スマートフォンへ、夢中で文字を打つ人。
誰もがそれぞれの形で、今夜を持ち帰ろうとしていた。
伊藤ななは友人と並んで歩いていた。
喉は完全に枯れている。
「……しゃべれない」
かすれた声に、友人が吹き出す。
「叫びすぎだよ」
「しょうがないじゃん」
二人は顔を見合わせて笑う。
しばらく歩いたあと、友人がぽつりと言った。
「乱入した時、本当に怖かった」
ななは頷く。
「あの瞬間、桃霞ちゃんが前に出たでしょ」
再び頷く。
「不思議だった。怖いはずなのに、大丈夫って思えた」
二人は歩きながらアリーナを振り返った。
建物はもう静かだった。
それでも胸の鼓動だけは、ライブ中のままだった。
「次も来る?」
ななは今度だけ、声を絞り出した。
「絶対」
その一言だけで十分だった。
山田健一は、一人で夜道を歩いていた。
右手にはベリーレッド。
左手にはラベンダーパープル。
会場へ入る前は迷っていた。
本当に受け入れられるのか。
本当に七人なのか。
そんな疑いを抱えたまま座席に着いた。
だが今は違う。
気づけば腕を組むことも忘れ、拍手を送り、アンコールを叫んでいた。
評価するつもりで来た自分が、応援する側になっていた。
健一は苦笑する。
「……完全にやられたな」
夜風が頬を抜けていく。
ラベンダーパープルのペンライトが、街灯を映し小さく光った。
「次も行く」
確認する必要もない。
もう答えは決まっていた。
少女は少し離れた歩道で立ち止まり、静かに横浜アリーナを見つめていた。
胸には、桃霞が最後に向けてくれた笑顔が残っている。
自分だけに向けられたものではない。
それでも、確かに自分にも届いた笑顔だった。
「……届いた」
その一言だけが自然に漏れる。
スマートフォンを取り出し、SNSを開く。
書いた文章は短かった。
> 届きました。ありがとう、桃霞ちゃん。
それ以上は続かなかった。
言葉では足りない夜だった。
投稿を終えると、少女はスマートフォンをしまう。
消えたピーチピンクのペンライトを胸に抱き、静かに歩き始めた。
夜が深まるにつれ、投稿は次々と流れていった。
「ありがとう、ゆめいろシフォン」
「七人、本当に最高だった」
「まだ余韻で駅まで歩けない」
「桃霞ちゃんの笑顔で泣いた」
「莉恋ちゃんのラベンダーパープル、ずっと忘れない」
「『届いていますか』で涙が止まらなかった」
「配信組だけど、家で叫んでた」
「次は絶対現地に行く」
「電車の中なのに泣きそう」
会場を後にした一万七千人。
画面越しに見届けた八万人。
場所は違っても、同じ夜を共有した人々が、それぞれの言葉で記憶を残していた。
スタンド席で最後まで声を重ねていた二人が、肩を並べて夜道を歩いていた。
三十代の姉と、二十代の妹。
最初にゆめいろシフォンを好きになったのは、姉だった。
その隣でライブ映像を見続けた妹が、気づけばもっと夢中になっていた。
「どうだった?」
姉が尋ねる。
妹は少し笑って、それから首を横に振った。
「……うまく言えない」
「そうなるよね」
「でも、一つだけ分かる」
「何?」
「来てよかった」
姉も静かに頷いた。
「私も」
少し歩いてから、妹が続ける。
「桃霞ちゃんが前に出た時、怖いはずなのに怖くなかった」
「あの乱入のところ?」
「うん」
「どうしてだろう」
妹は夜空を見上げた。
「守られてる気がしたから」
その答えに、姉は驚かなかった。
「……私も同じこと考えてた」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
「アイドルに守られたって思うの、不思議だけど」
「でも、本当にそう感じた」
話題は自然と、莉恋へ移った。
「ラベンダーパープル、綺麗だったね」
「泣いたよ」
「私も」
「色が変わったんじゃなくて、新しい一歩なんだってわかった」
信号が青に変わる。
二人は並んだまま、みなとみらいの夜へ歩いていった。
少し離れた歩道橋の下で、一人の男が足を止めていた。
首には、色あせ始めたベリーレッドのタオル。
ゆめいろシフォン結成当初から応援してきた、古参のファンだった。
新メンバー加入の知らせを聞いた時は、正直戸惑った。
六人で完成している。
そう思っていたからだ。
だが今夜、その考えは静かに変わった。
夜空を見上げる。
雲の切れ間から、わずかに星がのぞいていた。
「……苺ちゃん、大きくなったな」
独り言が漏れる。
デビュー当時の不安げな少女はもういない。
今日の苺は、自分の背中だけでなく、仲間の背中まで押していた。
七人を束ね、
一万七千人の前で、未来を宣言した。
男はタオルを握り直した。
「次も来るよ」
決意というより、確認だった。
その言葉は静かに夜風へ溶けていった。
観覧車は、いつもと同じ速度で回り続けていた。
駅へ向かう人。
ホテルへ向かう人。
駐車場へ急ぐ人。
立ち止まり、余韻を抱えたまま夜景を見上げる人。
一万七千人の帰り道は、それぞれ違う。
けれど胸の中には、同じ夜が残っていた。
和田さくらも、その一人だった。
駅へ向かう途中でスマートフォンを取り出し、流れていく投稿を眺める。
「ありがとう、ゆめいろシフォン」
「最高の夜だった」
「また絶対会いに行く」
画面を見つめたあと、自分も短く文字を打った。
> ラベンダーパープルの莉恋ちゃんに会えた夜。
> 終わりじゃなく、新しい始まりを見届けました。
> また会いに行きます。
送信を押す。
胸の中が少しだけ軽くなった。
夜風を受けながら、再び歩き始める。
人の流れがほとんど途切れた頃。
横浜アリーナの前には、一人の少女だけが残っていた。
最前列で桃霞を見つめ続けていた、あの女の子だった。
建物を見上げる。
もう歓声はない。
照明も落ちている。
けれど自分の中では、ライブが終わっていなかった。
胸の奥には最後に向けられた桃霞の笑顔が、鮮やかに残っている。
少女は静かに呟いた。
「桃霞ちゃん」
もちろん返事はない。
それでも続けた。
「届いたよ」
少しだけ目を閉じる。
「ありがとう」
その言葉を口にした瞬間、ようやく一区切りがついた気がした。
バッグへピーチピンクのペンライトをしまい、ゆっくりと駅へ向かって歩き出す。
みなとみらいの夜は、何事もなかったように続いていた。
観覧車は回り続け、
街の灯りは川面を照らし、人々はそれぞれの日常へ戻っていく。
けれど、その胸には今夜だけの光が残っていた。
七色のペンライト。
重なり合った歌声。
「届いた」という確かな実感。
時間が経てば、歓声は静けさへ変わる。
街から人は去り、夜風が余韻を運び去っていく。
それでも、一万七千人それぞれの心には、消えない残像が灯り続けていた。
横浜アリーナは静寂を取り戻していた。
客席は空になり、ステージも闇の中へ沈んでいる。
だがその静けさは、終幕ではない。
次の幕が上がるための静けさだった。
七人は、また新しい景色へ向かう。
ファンもまた、その日を待ちながら日常へ帰っていく。
そして今夜――
**七人のゆめいろシフォンが、本当の意味で歩き始めた夜**は、それぞれの胸の中で静かに続いていく。
つづく---
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




