第50話 終演の向こう側
七人が——暗がりに入った。
ステージから——バックステージへ。
光の中から——影の中へ。
その一歩を踏み出した瞬間、通路の両側に並ぶスタッフたちの姿が見えた。
音響スタッフ。
照明スタッフ。
衣装スタッフ。
田中。
中村。
誰も声を上げない。
ただ、七人が戻ってくるのを静かに待っていた。
先頭の苺が通路へ入る。
その瞬間、小さな拍手が自然に広がった。
派手ではない。
けれど、労いと安堵が混ざった温かな拍手だった。
苺は足を止める。
スタッフ一人一人の顔を見る。
全員が笑っていた。
「お疲れ様でした」
その声に、喉まで込み上げたものを一度だけ飲み込む。
「……ありがとうございました」
短い返事だった。
それでもその言葉には、今夜を一緒に作り上げた全員への、感謝が込められていた。
空は歩みを止めなかった。
耳を澄ませる。
客席の一万七千人とは違う拍手。
人数は少ない。
だからこそ、一人一人の音が鮮明だった。
「声、最後まで出ていましたよ」
音響スタッフが笑う。
空は静かに尋ねた。
「……届いていましたか」
「三階席まで、ちゃんと」
空は柔らかく頷く。
「それが、一番嬉しいです」
向日葵は通路へ入った途端、目元を押さえた。
涙があふれる。
「なんで今泣くの、私」
泣きながら笑う。
その姿を見たスタッフたちも笑顔になる。
「本当に、ありがとうございました!!」
大きな声が通路いっぱいに響き、空気が一気に和らいだ。
若葉はスタッフの顔を順番に見つめた。
今日は分析しない。
数字にも置き換えない。
田中が声を掛ける。
「映像確認は、後でしますか」
若葉は首を横に振った。
「……明日にします」
「珍しいですね」
「今夜は、感じたまま残しておきたいので」
田中は微笑んだ。
「今夜の配信、最後まで八万人が見ていましたよ」
若葉は驚くほど静かな表情で答える。
「大きな数字ですね。でも今夜は、その前に感じたものがあります」
杏は通路へ入ると、小さく息を吸った。
張りつめていた空気は消えていた。
照明機材の熱。
汗が乾き始めた匂い。
スタッフたちが安堵して吐いた息。
全部が混ざり合い、通路全体を包んでいた。
「杏さん」
スタッフが声を掛ける。
「乱入の時、前に出てくださって、ありがとうございました」
杏は穏やかに答えた。
「皆さんに、安心していただきたかっただけです」
「その気持ちは届いていました」
杏は静かに笑った。
「……それなら、よかったです」
莉恋は歩きながら、衣装スタッフを見つけた。
今日自分に、ラベンダーパープルを託してくれた人だった。
その前で立ち止まる。
「ありがとうございました」
スタッフは驚き、すぐ笑顔になる。
「本当によくお似合いでした」
莉恋は胸元のラインをそっと見下ろした。
「この衣装をまとえて、よかったです」
深い言葉は交わさない。
それだけで十分伝わった。
最後に桃霞が通路へ姿を現した。
静かな拍手が、少しだけ大きくなる。
誰かが合図したわけではない。
自然とそうなった。
桃霞は立ち止まらず歩く。
照明スタッフが目元を拭っていた。
衣装スタッフは、拍手を止めずに笑っていた。
田中は小さく頷いていた。
その光景を見て桃霞は胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。
理解しようとはしなかった。
ただ、そのまま受け取った。
「お疲れ様でした」
「……ありがとうございました」
歩きながら、全員の顔を見る。
今夜を支えた人たちが、同じように笑っていた。
その笑顔を見て、桃霞は静かに思う。
今夜自分だけが、誰かへ届けたのではない。
ステージの上も。
その裏側も。
同じ夜を、一緒に作り上げたのだと。
そして、その思いを胸に抱いたまま、七人は通路の奥へ歩いていった。
麻衣が——通路の奥に立っていた。
胸の前でタブレットを抱え、七人が戻ってくるのを静かに見守っていた。
桃霞が、その前で足を止めた。
「浅井さん」
「はい」
「……今夜、見ていてくれましたか」
「最初から最後まで。確認係としても、一人の観客としても」
桃霞は少しだけ目を伏せた。
「台帳には……何を書いたんですか」
麻衣はタブレットを指先でなぞった。
「たくさんです。でも、全部は文字になりませんでした」
「教えてもらえますか」
「いつか。桃霞さん自身が振り返りたくなった日に、お見せします」
静かな沈黙が流れた。
拍手の余韻だけが、まだ通路の奥から聞こえていた。
「……胸の奥が、まだ落ち着きません」
麻衣は小さく頷いた。
「そのままでいいと思います」
「消えなくても?」
「はい。消えないものがあるから、人は前へ進めることもあります」
桃霞はその言葉を胸にしまった。
「プロフィールに、『まだ笑い方を知らないアイドル』と書かれていましたよね」
「ええ」
「今夜は……変われたでしょうか」
麻衣は少し考えたあと、問い返した。
「桃霞さんは、どう思いますか」
桃霞は遠くで笑い合うメンバーを見つめた。
「……知り終えたとは思いません」
一拍。
「でも、知り始めた気はします」
麻衣は静かにタブレットを開き、その一文だけを書き留めた。
> 「知り始めた」——本人の言葉。
画面を閉じる音は、小さかった。
桃霞は微笑んだ。
「……ありがとうございます」
通路の奥から苺の声が響いた。
「みんなー! 集まろう!」
七人が自然に輪を作る。
その外側を、スタッフたちが囲んだ。
苺はメンバーとスタッフ全員を見渡した。
「今日は、本当にありがとうございました」
深く頭を下げる。
「このライブは、七人だけじゃ作れませんでした。支えてくれた皆さんがいたから、ここまで来られました」
今度はスタッフから拍手が起きた。
穏やかで、温かな拍手だった。
空は照れくさそうに笑い、
「最後まで歓声が、ちゃんと聞こえていました」
と呟いた。
杏は目を閉じ、小さく息を吸う。
「安心したあとの空気って、こんな匂いなんだね」
莉恋は胸元のラベンダーパープルのラインを見下ろし、
「ちゃんと覚えてもらえた、気がします」
と静かに笑った。
若葉は周囲を見渡して言う。
「今日は分析より先に、感じることができました」
向日葵だけは涙をぬぐいながら、
「だから私だけ、まだ泣いてる!」
と言って皆を笑わせた。
その輪から少し離れた場所で、中村が麻衣に声を掛けた。
「少しだけ、いい」
二人は通路の端へ移る。
「私、子どもができました」
麻衣は驚きながらも、どこか納得したように頷いた。
最近の慎重な動きや体調への気遣いが、一つにつながった。
「おめでとうございます」
「ありがとう。今夜が終わってから、伝えようと決めていた」
「仕事を最後まで、やり遂げたかったんですね」
「はい」
麻衣は微笑んだ。
「体、大切にしてください」
「もちろんです」
二人は短く笑い合い、輪の中へ戻った。
その頃、向日葵はまだ目元を押さえていた。
「なんで、泣き止めないんだろう」
空が肩をすくめる。
「たぶん嬉しいから」
「うん……みんながいるから」
苺は向日葵の肩を軽く叩いた。
「泣けるのも、今の向日葵らしさだよ」
向日葵はまた、涙を浮かべながら笑った。
そこへ藤原が姿を現した。
全員の前で立ち止まる。
「全員、よくやった」
短い言葉。
しかし、その重みは誰もが受け止めた。
さらに続ける。
「次のライブが決まった。正式発表は来週だ」
その場は一瞬、静まり返った。
誰もすぐには反応できなかった。
最初に声を上げたのは、向日葵だった。
「えーーーーーーっ!」
笑いが弾ける。
若葉が確認するように尋ねる。
「七人で、ですよね」
藤原は即座に答えた。
「当たり前だ」
桃霞はゆっくりと息を吸った。
胸の奥が、また静かに波打った。
今度は言葉にしなかった。
その表情だけで、苺には十分伝わっていた。
「次も、一緒だね」
「はい」
それだけでよかった。
通路には、笑い声が満ちていた。
ライブは終わった。
けれど、終幕の空気ではなかった。
次の舞台へ向かう準備の空気だった。
麻衣は最後にタブレットを開く。
> 今夜が終わった。
> 七人は笑っていた。
> スタッフも笑っていた。
> そして、七人で歩く次の道が決まった。
一行空けて、もう一文を書き足す。
> 「まだ笑い方を知らないアイドル」は、自分で「知り始めた」と言った。
静かにタブレットを閉じる。
視線の先では、白い衣装に七色のラインをまとった七人が笑い合い、その周りでスタッフたちも同じように笑っていた。
通路の照明は穏やかに七色を照らしている。
今夜の記録は、ここで終わる。
けれど——
七人の物語は、ここからまた始まっていく。
つづく---
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




