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届く前夜

一月十四日(火) 朝 横浜・みなとみらい




二日目の朝も、空気は乾いていた。




昨日より一度か二度、気温が下がっている気がした。


麻衣は、同じ道を歩いていた。


同じコート。同じパンプス。


違うのは、インナーだけだ。


今日は白のハイネックカットソーにした。


紺と白を交互に着る——その程度の変化が、麻衣の朝の「選択」だった。




ビルのエントランスを入る。受付の中林さんが顔を上げる。「おはようございます」。


エレベーターで四階へ。扉が開く。




田中が、すでに来ていた。




珍しかった。


田中は定刻ちょうどに来ることが多い。早い日は少ない。




「おはようございます」




「……おはようございます。早いですね」




「ゆめいろシフォンのオーディション概要、昨夜また確認してたら眠れなくて」




田中は言いながら、自分のパソコンを開いた。


今日は黒のパーカーにジーンズ。昨日より少しだけカジュアルだった。




「眠れない理由が、それですか」




「だって、全国十二会場ですよ。リモートで。すごくないですか」




「設備の準備が大変なのは、うちよりも各会場の担当者の方ですが」




「そういうことじゃなくて」




田中は、苦笑した。




「……全国から集まってくる、ってことが、すごいって言いたいんです」




「北海道から、九州から」




「そうです。自分のそこからいちばん近い会場に行って、モニターの前に立って。横浜の審査員に見られる」




麻衣は、コートを脱いでハンガーにかけながら聞いていた。




「応募する側からすると、全国どこからでも受けられる、というのはありがたいじゃないですか」




「ありがたいし——」




田中は、少し言葉を探した。




「なんか、平等な感じがして。好きです、そういうの」




麻衣は、椅子に座りながら言った。




「平等ではないと思いますよ」




「え?」




「会場に行く交通費は自己負担です。北海道と神奈川では、負担の大きさが違う」




田中が、少し黙った。




「……確かに」




「全員に等しく機会がある、ということと、全員に等しく条件がある、ということは、違います」




田中は、パソコンの画面を見たまま、少し考えた。




「……麻衣さんって、ちゃんと考えていますね」




「当たり前です」




「いや、なんか——」




田中は言いかけて、止めた。




「なんでもないです。今日も仕事頑張りましょう」




麻衣は、パソコンを起動しながら答えた。




「はい」




二日目の仕事




午前中は、郵送応募の受け取り体制を整えた。




応募が始まるのは二月一日からだが、すでに「間違えて送ってくる」応募者が出ることを見越して、受け取り先の住所確認と、受け取り後の振り分けフローを整理する必要があった。




過去のオーディションでは、受付開始前に届いた郵便物が全体の三パーセント前後あったと、中村先輩が言っていた。




三パーセント。


九千通なら、二百七十通が期間外に届く計算だ。




「それでも受け取るんですか」と田中が聞いた。


「受け取ります。封は開けずに保管して、受付開始後に通常書類と同様に処理します」と麻衣が答えた。


「親切ですね」と田中が言った。


「仕組みです」と麻衣が返した。




親切ではない。


「受け取らない」とした場合に発生するクレームと、その対応コストを考えると、受け取る方が合理的だ。


九条冴子がそう判断した結果が、このフローとして存在している。


麻衣はそれを「仕組み」と呼んだ。




午後は、書類審査の評価シートのフォーマットを整えた。


項目は五つ。写真評価。プロフィール確認。自己PR評価。志望動機評価。総合判定。


それぞれに評価軸があり、最終的に「通過」「保留」「不通過」の三択で判定する。




「保留、というのは?」と田中が聞いた。


「判断が難しいもの。後で九条さんが直接見る分です」と麻衣が答えた。


「九条さんが全部見るわけじゃないんですか」


「全部見たら、何日かかるか分かりません」


「それもそうか」




中村先輩が「九条さんが見るのは最終的に五十件くらい。あとは私たちで絞る」と言っていた。


五十件。


九千通のうちの、五十件。




その五十件を選ぶのが、麻衣たちの仕事だった。




一月十五日(水) 昼 社内会議室




三日目は、オーディション全体の進行確認会議があった。




会議室Cに、関係者が集まった。


藤原係長、中村先輩、麻衣、田中。それから二次審査の会場手配を担当する制作部の人間が二人。


六人で、テーブルを囲んだ。




中村麗子先輩は、三十二歳。


ショートカットの黒髪、切れ長の目。


今日は深緑のタートルネックに黒のスラックス。


いつも要領よく、仕事が速い。


「深く考えない」がモットーだと本人が言っているが、麻衣の観察では「深く考えた上で、考えすぎないようにしている」ように見える。




会議は、藤原係長が進行した。


書類受付の開始日、フォーム公開のタイミング、郵送の締め切り、各審査の会場確保の状況——


一つずつ確認していく。




麻衣は、メモを取りながら聞いていた。




全国十二会場のうち、三会場はまだ仮押さえの段階だと、制作部の担当者が言った。


藤原係長が「いつまでに確定できるか」と聞いた。


「今月末までには」という答えが返ってきた。


「今月末では遅い。来週中に」と係長が言った。


制作部の担当者が、メモを取った。




麻衣は、その一連のやり取りを見ながら思った。




(この会議室で決まることが、全国の誰かの「受けられる場所」になる)




仮押さえが確定しなければ、その会場を希望した応募者は他の会場を選びなおすことになる。


あるいは、遠い会場を選ぶしかなくなる。


書類の上にある名前の背後に、そういう事情がある。




「浅井、WEBフォームの公開は来週の火曜でいいな」




藤原係長が確認した。




「はい、問題ありません」




「郵送の封筒が届いた場合の受け取り体制は整えたか」




「昨日整えました。期間外に届いた場合は封を開けずに保管します」




「よし」




係長は、次の項目に移った。


麻衣の仕事は「よし」で完了した。


それ以上の言葉は来ない。


来ないということは、問題がないということだ。


麻衣はそれで十分だった。




会議後 中村先輩との会話




会議が終わって、廊下に出た。




中村先輩が隣に並んだ。




「浅井さん、慣れてきた?」




「どのくらいで慣れると思いますか」




中村先輩は少し笑った。




「三回目のオーディションが終わったくらいかな。私は」




「三回目というのは、今回が何回目ですか」




「私は五回目。浅井さんは今回が二回目でしょ」




「そうです」




「じゃあまだ慣れなくていいよ」




「……慣れない方がいいということですか」




中村先輩は少し考えた。




「慣れると——」




廊下を歩きながら、言葉を選ぶ。




「書類を見る速度は上がるんだけど、一枚一枚に対して何も感じなくなってくる」




「感じない方が、仕事は速いんじゃないですか」




「速い。でも——」




中村先輩は少し間を置いた。




「たまに、感じていれば気づけたものを通り過ぎることがある」




麻衣は、その言葉を聞いた。




「……気づけたもの、というのは」




「九条さんが欲しいもの。でも書類からじゃ見えにくいもの」




「それが、感じないと通り過ぎてしまう」




「そう。私、一回失敗してるから」




中村先輩は、さらりと言った。




「失敗、というのは」




「保留にしておけばよかった書類を、不通過にしたことがある。後で分かったんだけどね」




「……どうして分かったんですか」




「その子、別の事務所でデビューして。テレビで見た」




麻衣は、少し黙った。




「……先輩は、その子のことを覚えていたのですか。書類の段階で」




「覚えていたよ。何かがあった気がしたんだけど、うまく言語化できなくて。「保留」にする基準を満たしてると言えるほどでもなかったから、不通過にした」




「それが、失敗だったと」




「うん。だから今は——うまく言語化できなくても、何かがあると感じたら保留に入れてる」




「それで、係長には何か言われないんですか」




「言われる。「保留が多い」って。でも九条さんは何も言わない」




中村先輩は、オフィスの扉の前で止まった。




「九条さんが気に入るのって、書類から「言語化できるもの」を持った子だけじゃないから」




「言語化できないものを持った子も、いる?」




「たまに、いる」




「それを見つけるのが——感じること、ということですか」




中村先輩は、麻衣を見た。




「浅井さん、飲み込みが早いね」




「高橋さんも同じことを言いました」




「そりゃそうだよ」




中村先輩は、扉を開けた。




「いい意味で言ってるから、悪く受け取らないで」




「……受け取り方が分からなかっただけです」




中村先輩は、笑った。




本当に笑っていた。




一月下旬 準備期間の終わり




その後の二週間は、準備に費やした。




WEB応募フォームの公開。SNSでの告知拡散の確認。


全国十二会場の確定連絡。各会場担当者とのメールのやり取り。


書類の仕分けフローの最終確認。評価シートの印刷と準備。


スタッキングボックスのラベル貼り。




ラベルは麻衣が手書きした。


「1〜200」「201〜400」という形で、二百通ごとに区分けする。


二十個のボックスに、二十枚のラベルを貼った。




田中が横から見ていた。




「手書きでいいんですか、それ」




「印刷でもいいですが、手書きの方が早かったので」




「……麻衣さんって、字が綺麗ですね」




「そうですか」




「そうですよ。一つ聞いていいですか」




「どうぞ」




「麻衣さんは、なんでアイドルの事務所に転職したんですか」




麻衣は、手を止めた。




「エンタメ業界で働きたいと思ったので」




「アイドルが好きで?」




「……特定のアーティストや作品に、強い思い入れがあったわけではないですが」




「じゃあ、なんで」




麻衣は少しだけ考えた。




「前の職場で、書類の処理をしていたとき——」




「書類の処理、って何の」




「不動産の売買書類です。ローンの申請書類とか」




「ああ、前職って不動産だったんですね」




「そうです。そのとき——書類を処理しながら、これは誰かの人生の決断だと思うことがあって」




「家を買う決断、ということですか」




「そうです。数千万円の決断が、A4の紙に乗っている。それを私は毎日、処理している」




「……いい仕事じゃないですか」




「悪くはなかった。でも——もう少し、違う種類の「決断」に関わりたいと思った」




「違う種類の決断」




「夢に関わる決断、といえばいいか——正確ではないかもしれませんが」




田中は、麻衣を見た。




「……麻衣さん、マンチックなこと言いましたよ今」




「ロマンチックではないですよ」




「ロマンチックですよ」




「仕事として選んだだけです」




「それがロマンチックなんですよ」




麻衣は、ラベルを貼り続けた。


何も言わなかった。


言い返す言葉が、見つからなかった。




一月三十一日(金) 夜




一月の最終日。




退社前、麻衣はスタッキングボックスの前に立った。




二十個のボックスが、壁際に積まれている。


全部空だ。


全部に、ラベルが貼られている。


「1〜200」から始まって「3801〜4000」まで。


最後のボックスは「4001〜」とだけ書いた。


上限を書かなかった。


何通来るか、まだ分からないから。




明日から、二月が始まる。


明日から、応募が始まる。




麻衣は、ボックスを一つだけ触った。


透明のプラスチックが、冷たかった。




(明日から、ここに来る)




夢が。


決断が。


A4の紙に乗った、誰かの「知りたいことがあります」が。




——まだ来ていない。


だが、来る。


確実に、来る。




麻衣は、ボックスから手を離した。




コートを着る。マフラーを巻く。電気を消す。




廊下に出たとき、田中がまだいた。




「まだいたんですか」




「ゆめいろシフォンのライブ映像見てました」




「仕事中に?」




「仕事終わってからです! もう退勤打ってます」




田中は、スマートフォンを差し出した。


画面に、ライブ映像が映っていた。


六人が、ステージで踊っている。


光の中で。


笑いながら。




麻衣は、その画面を見た。




六人。


それぞれの色の照明を受けながら、踊っている。


笑顔が、均一だった。


全員が笑っている。


全員の笑顔が、完成されている。




(完成されている)




それが——少しだけ、引っかかった。




引っかかりの正体は、麻衣には分からなかった。


映像は、綺麗だ。


笑顔は、完璧だ。


だが——




「見ます? もう少し」と田中が言った。




「いえ」と麻衣は答えた。




スマートフォンを返す。


「おやすみなさい」と言って、先に出た。




廊下を歩きながら——




さっきの引っかかりを、もう一度考えた。




全員の笑顔が、完成されている。




それの何が、引っかかったのか。




分からなかった。


「気のせいだ」と処理した。




エレベーターが来た。


乗る。


一階に降りる。


自動ドアが開いて、夜の外気が来た。




一月三十一日の横浜の夜は、透き通るように冷えていた。




明日から二月。


明日から、届く。




マフラーの中に顎を埋めながら、麻衣は歩き出した。




観覧車が、夜の空に光りながら回っている。




その光の中に——まだ、誰かの名前はなかった。





つづく…

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