箱はまだ空で
一月十三日(月) 朝 横浜・みなとみらい
冬の横浜は、朝が遅い。
一月の夜明けは七時を過ぎてから来る。
湾岸を歩いていると、東の空はまだ暗い青から、ようやく灰色へと変わり始めたところだった。
海風がビルの隙間を抜ける。
乾いていて、冷たい。港の匂いがする。
浅井麻衣(27歳)は、コートの前をきつく合わせながら歩いていた。
黒のウールコート。膝丈。
紺のタートルネックに、グレーのスラックス。黒のローヒール。
転職してから一年と少し。
ほとんど毎朝、同じ格好でこの道を歩いている。
前日に何を着るか考える余裕がない、という理由は、もうなくなっている。
それでも変えていない。
変える必要を、感じていない。
身長は百六十センチ。
黒髪のストレートロングは、職場ではひとつにまとめる。
今朝はそのまま、ネイビーのシュシュで結んでいた。
化粧は薄い。
アイラインを引いて、リップを一度だけ重ねる。
それで十分だと思っている。
「地味」と言われたことが、二回ある。
大学の友人と、前職の同僚に。
どちらにも、反論はしなかった。
ランドマークタワーが、朝の光の中に立っている。
観覧車はまだ動いていない。
この時間に動いていたことは、一度もない。
九条エンターテインメントのビルが見えてきた。
ガラス張りの外壁が、白に近い光を返す。
温度のない色だった。
麻衣は、その光を見るたびに思う。
今年も、始まった。
十三日目だった。
エントランスの自動ドアが開いた瞬間、暖かい空気が流れてきた。
「浅井さん、おはようございます」
「おはようございます」
エレベーターで四階へ。
扉が開く。
「麻衣さん! 来た! 聞きましたか!」
田中聡が立ち上がっていた。
二十四歳。細い体。
スウェットにチノパン。
毎朝、少しだけ目に引っかかる。
「聞きました、何を?」
「発表ですよ!」
スマートフォンを差し出される。
『ゆめいろシフォン 新メンバーオーディション開催決定』
麻衣は見た。
一秒。
二秒。
「……知ってます」
「え、知ってたんですか?」
「昨日、係長から」
「……仕事として、ですか」
「そうです」
田中は少し黙った。
「僕はファンとして知りました」
スマートフォンを下ろす。
「……どっちが先に知るべきだったんでしょうね」
「どちらでも、やることは変わりません」
田中は椅子に座った。
声に、整理されていない色が残っている。
麻衣には、それがよく分からない。
「好きか」と問われても、答えはない。
曲を一曲、知っている。
それだけだ。
コートを脱ぐ。
ハンガーにかける。
座る。
パソコンを起動する。
今日からの仕事は、決まっていた。
藤原係長は九時ちょうどに来た。
「浅井、倉庫から箱を出しておいてくれ」
「スタッキングボックスですか」
「ああ。二十個」
それだけ言って通り過ぎる。
麻衣は立ち上がった。
倉庫は静かだった。
透明のスタッキングボックスが積まれている。
縦四十、横三十、高さ二十五。
二十個。
麻衣は、それを見た。
(これが全部、書類で埋まる)
八千通。
昨日、聞いた数字だった。
七千から九千。
一個あたり四百通。
四百通。
四百人。
四百の志望動機。
四百の写真。
四百の「なりたい」。
一つの箱に収まる。
——その考えで、手が一瞬止まった。
止まっただけだった。
麻衣は箱を持ち上げた。
一つ。
もう一つ。
二十個を台車に乗せる。
オフィスに戻る。
箱を積み上げる。
空のまま、二十個。
何も入っていない。
だが来週には、すべて埋まる。
田中が近づいてきた。
「……これ、全部埋まるんですか」
「足りないかもしれません」
「七千から九千……」
田中は箱を見た。
「すごい数ですね」
「そうですね」
「麻衣さん、スゴいと思わないですか」
「思います」
それは事実だった。
七千人が送ってくる。
それを、分ける。
残す。
落とす。
「すごい」と「処理する」が、同時に存在している。
それが仕事だった。
午後、フォーム設定。
項目を確認する。
送信する。
確認する。
三時間。
終わる。
夕方。
観覧車が回り始める。
止まることなく、同じ速度で。
帰り支度。
「増えるの怖い」
スマートフォンの画面に流れる言葉。
怖い。
楽しみ。
同時に存在する。
麻衣には、それが自然に思えた。
帰宅。
六畳一間。
静か。
冷蔵庫。
惣菜。
温める。
食べる。
天井を見る。
今日やったことを数える。
箱。
フォーム。
会話。
来週から始まる。
一日、二百七十通。
一ヶ月で、七千から九千通。
そのすべてを、見る。
分ける。
残す。
落とす。
それが仕事だ。
母から電話。
会話。
終わる。
布団に入る。
天井が静かだった。
二百七十通。
七千通。
九千通。
その中に、何があるかは分からない。
分からなくても、問題はない。
——分かる必要がないからだ。
電気を消す。
明日も同じ道を歩く。
同じ服で。
同じ速度で。
同じ光を見て。
今年も、始まった、と。
眠りはすぐに来た。
観覧車は、止まらず回っている。
つづく…




