表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/56

第38話 次に会う私は

六曲目が終わった。


七人が一礼する。




歓声が、横浜アリーナを揺らした。


一万七千人の声。


拍手。


名前を呼ぶ声。


ペンライトの光。




そのすべてを背に、七人はステージ袖へ向かって歩き始めた。


六人が進む。


だが、一人だけ足を止めた。


莉恋だった。


客席前方の観客が気づく。




「あれ……」


「莉恋ちゃん?」


「残ってる……」




六人の背中がステージ袖へ消えていく。


その中央で、莉恋だけが立ち止まっている。


その違和感は、波のように客席へ広がった。




そして——


照明が落ちた。


横浜アリーナが暗闇に包まれる。




次の瞬間。


一本のスポットライトが降りた。


白い光が照らしていたのは、莉恋ただ一人だった。




「え……?」


「一人?」


「何が始まるの……?」




ざわめきが起こる。


だが、その声は不思議なほど小さい。


誰もが感じていた。


今、この空間には壊してはいけない何かがあると。




スポットライトの中の莉恋は、静かだった。


驚くほど静かに。


まるで、自分の中の答えを確かめるように。




莉恋は客席を見つめた。


暗闇の向こうに、一万七千人がいる。


姿は見えない。


だが、わかる。


一年間、自分を見守ってくれた人たちがいる。


支えてくれた人たちがいる。


その存在だけは、はっきりと感じられた。




莉恋はゆっくりとマイクを持ち上げた。


会場が息を呑んだ。




「今日で——終わりじゃないんです」




静かな声だった。


叫ぶわけでもない。


感情をぶつけるわけでもない。


それなのに、その言葉は会場の隅々まで届いた。




歓声が消える。


一万七千人が莉恋の次の言葉を待った。




「でも——」




短い沈黙。


莉恋は小さく息を吸った。




「最後なんです」




会場が静まり返った。


誰一人として声を出さない。




「今日で終わりじゃない」


「でも最後」




その意味を、全員が理解した。




チェリーピンクが終わるわけではない。


莉恋が消えるわけでもない。


けれど、今までの莉恋は今日で最後なのだ。




客席で和田さくらは、ペンライトを握り締めた。


胸が苦しい。


寂しい。


それなのに、不思議と前を向きたくなる。


そんな感情が入り混じっていた。




莉恋は客席を見渡した。


そして微笑んだ。




「チェリーピンクのペンライト——」




一呼吸置く。




「見せてもらえますか?」




その瞬間だった。




客席中で光が上がる。


一本。


十本。


百本。


千本。


止まらない。




アリーナ席から。


スタンド席から。


二階席から。


チェリーピンクが、夜空の星のように広がっていく。




ラベンダーパープルを持つ人もいた。


他のメンバーの色を持つ人もいた。


それでも皆、もう一本のチェリーピンクを掲げた。




一年間。


莉恋を応援してきた証だった。




伊藤ななは、涙を流していた。


理由はうまく説明できない。


ただ、「最後」という言葉が胸に届いた瞬間、涙が溢れた。




「……莉恋ちゃん」




小さく呟く。


届くはずのない声。


それでも言わずにはいられなかった。




スポットライトの中で、莉恋はその光景を見つめていた。


チェリーピンクの海。


揺れる光。


自分のために集まってくれた人たち。




初めてステージに立った日。


不安でいっぱいだった日々。


鏡の前で何度も笑顔を練習した夜。


自信を失った日。


それでも前を向こうとした日。


すべてが胸の中を通り過ぎていく。




チェリーピンクは、自分を支えてくれた色だった。


捨てるものではない。


置いていくものでもない。


連れていくものだ。




莉恋の目が揺れた。


涙がこぼれそうになる。


それでも、こぼさなかった。




「ありがとう」




短い言葉。


たった五文字。


その一言に、一年分の想いが込められていた。




会場のあちこちから、すすり泣きが聞こえる。


誰も叫ばない。


誰も騒がない。


ただ、その言葉を受け止めていた。




静かな時間が流れた。


チェリーピンクの光だけが揺れている。


誰もその空気を壊そうとしなかった。




莉恋はマイクを握り直した。


そして、まっすぐ前を向く。




もう迷いはなかった。


チェリーピンクの自分を否定しない。


失わない。




抱きしめたまま前へ進む。


それが、自分の答えだった。




「次に会う私は——」




会場の全員が耳を傾ける。


莉恋は微笑んだ。




「少しだけ、違います」




その瞬間だった。




会場の照明が変わる。


天井が。


壁が。


床が。


客席が。


横浜アリーナのすべてがチェリーピンクに染まった。




歓声は上がらない。


ただ、多くの観客が涙を流していた。




さくらも泣いていた。


視界が滲む。




チェリーピンクの光と照明が重なり、会場全体が一つの色になる。


莉恋の色。


一年間、彼女が背負い続けた色。


そして、これからも彼女の中に、残り続ける色。




「……綺麗」




誰かが呟いた。


その言葉が、今の空間を一番正しく表していた。




莉恋は会場を見渡した。


一万七千人の光景を目に焼き付ける。




忘れない。


この景色を。


この色を。


この声を。


この一年を。




そして、ゆっくりとステージ袖へ向かって歩き出した。


数歩進み、最後に振り返る。




チェリーピンクに染まった、横浜アリーナ。


その光景を胸に刻み込む。




小さく頭を下げた。




それから——


莉恋は暗がりの向こうへ消えていった。


だが、チェリーピンクの光は消えなかった。


誰もペンライトを下ろさなかった。




次に現れる彼女が、どんな姿になっているのか。


まだ誰も知らない。


それでも、一万七千人は信じていた。


今日の別れが、終わりではないことを。




バックステージに戻った瞬間——


世界が変わった。


ついさっきまで聞こえていた一万七千人の歓声は、厚い壁の向こうへ遠ざかり、代わりにスタッフたちの声が飛び交う。




「A班、スタンバイ!」


「転換あと二分半!」


「照明キュー確認!」




インカムの声。


走る足音。


移動する機材。




次の演出へ向けて、動き続ける現場。




だが——


莉恋には、そのすべてが少し遠く聞こえた。




ステージ袖へ入ってもなお、目の奥にはチェリーピンクの光が残っていた。


一万七千本の光。


自分へ向けられた光。


あの景色だけが、まだ消えなかった。




その時だった。




「莉恋さん」




麻衣が声を掛けた。


莉恋が顔を上げる。




「……麻衣さん」




麻衣は一瞬だけ言葉を選び、それから小さく微笑んだ。




「綺麗でした」




莉恋が目を瞬かせる。




「え?」




「チェリーピンクです」




短い言葉だった。


だが、その一言で胸の奥が少し揺れた。




「……ありがとうございます」




そう答える声は、いつもより少しだけ掠れていた。




麻衣は莉恋の様子を見つめた。


泣いてはいない。


崩れてもいない。


だが、呼吸がわずかに浅い。


指先も少しだけ震えている。




無理もなかった。


たった今、一万七千人の想いを受け取ってきたばかりなのだから。




「衣装替えの準備が、できています」




麻衣は静かに言った。


そして続ける。




「次の出番まで、三分あります」




三分。


それは短い。


今の莉恋には、必要な時間だった。




「急がなくて大丈夫です」




麻衣の声は柔らかかった。




「……はい」




莉恋は頷いた。




衣装ラックが並ぶスペースへ向かう。


スタッフたちが、準備を進めている。




次の衣装。


次の演出。


次のステージ。


次の自分。




歩きながら、莉恋はふと足を緩めた。




——次に会う私は、少しだけ違います。




数分前、自分の口から出た言葉。


会場では迷いなく言えた。


だが今、その言葉が改めて胸に返ってくる。




少しだけ違う。


本当にそうだろうか。


少しだけなのだろうか。




チェリーピンクの自分。


不安ばかりだった自分。


支えられてきた自分。


その全部を抱えたまま、前へ進めるのだろうか。




莉恋は目を閉じた。


すると、さっきの光景が浮かんだ。


チェリーピンクの海。


揺れるペンライト。


泣いている人たち。


そして、自分を見つめていた一万七千人。




自然と息が整った。


大丈夫だ。


失うわけじゃない。


置いていくわけでもない。


連れていくのだから。




莉恋は目を開いた。




その瞳の揺れは、まだ完全には消えていない。


けれど先ほどとは少し違っていた。


迷いだけの揺れではない。


決意を抱えた揺れだった。




「……行こう」




誰に聞かせるでもなく呟く。


その言葉と共に、莉恋は衣装替えのスペースへ足を踏み入れた。




三分後。


彼女は再びステージへ立つ。




今までの自分を抱きしめたまま。


少しだけ違う自分として。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ