第36話 届き始めた光
バックステージ。
麻衣は、タブレットを持っていた。
インカムをつけていた。
「七人の動線確認、問題なし」
確認事項を、頭の中で消していた。
一つ。 また一つ。
仕事をしていた。
だが——
一万七千人の声が——
体を通り抜けていた。
床の振動が——
足の裏から来ていた。
麻衣の体が——
震えていた。
気づいた。
止めなかった。
タブレットを開いていた。
メモしようとしていた。
できなかった。
今夜の横浜アリーナが——
処理できなかった。
(処理できない夜だ)
麻衣は、それを確認した。
確認して——
処理をやめた。
タブレットを持ったまま——
ステージを見た。
七色が——光の中で動いていた。
それだけを——見た。
一曲目が終わった。
一万七千人の声が——爆発した。
七人が、最後のポーズで止まった。
その声が——
バックステージまで届いた。
麻衣の体を——通り抜けた。
タブレットを握る手が——
白くなっていた。
力が入っていた。
気づいていなかった。
気づいたとき——
少し、緩めた。
少しだけ。
二曲目 『虹色ステップ』
七色をテーマにした曲だった。
桃霞が加入してから初めて作られた、新曲だった。
始まった。
客席のペンライトが——大きく揺れた。
左に。 右に。
一万七千本が波のように揺れた。
会場全体が一つの生き物のように、うねった。
空は——踊りながら、聴いていた。
耳が——今夜の音を、捉えていた。
一万七千人が作る音を。
スタジオでは聴いたことがない音を。
自分の声が——吸い込まれないことを、確認した。
遠くまで——届いていた。
声が届く空間だということを——
今、体で確認した。
表情が——わずかに、和らいだ。
笑顔ではなかった。
ただ——緊張が、少し解けた顔だった。
届いている、という確信が——
体を、少し——軽くした。
踊りながら——
今夜の音を、聴き続けた。
向日葵は——爆発していた。
ステージ袖で止まらなかった足踏みが——
ステージの上で——踊りに変わっていた。
緊張が——エネルギーに変わっていた。
「届けたい」という衝動が——
体を動かしていた。
怖さより——
届けたい気持ちの方が、大きくなっていた。
ペンライトが揺れる客席に向かって——
向日葵は、踊った。
届けた。
技術ではなく——
衝動で、届けた。
客席から——声が来た。
「向日葵ちゃん!!!」
「最高!!!!」
その声が——
また向日葵に来た。
来た瞬間に——また届けたくなった。
連鎖が——止まらなかった。
アリーナ前方、左ブロック。
山田健一は——腕を組んだままだった。
桃霞を——まだ見ていた。
二曲目に入って——
桃霞の動きが、変わった気がした。
変わった、というより——
何かが、増えた気がした。
一曲目は——完璧な技術で踊っていた。
二曲目は——技術の上に、何かが乗っていた。
それが何かは——
健一には、言語化できなかった。
だが——
「向かっている」という感覚があった。
どこかに向かっていた。
誰かに向かっていた。
それが——健一には、引っかかった。
腕を組んだまま——
桃霞の動きを追っていた。
目が——離せなかった。
(何だ、これは)
また、思った。
二回目だった。
同じ感覚が——二回来た。
健一の中で、何かが——
少しずつ、動いていた。
バックステージ。
中村先輩は、ステージ上手の袖にいた。
インカムをつけていた。
進行表を持っていた。
二曲目の途中——
照明チームからインカムが入った。
「三曲目のライティング、確認お願いします」
「確認します。三曲目——全体ウォームホワイト、メンバーポジションにスポット七本」
「了解です」
「ありがとうございます」
インカムが切れた。
中村は、進行表に——「確認済」と書いた。
書いた後——
一瞬だけ。
左手が、壁についた。
コンクリートの壁に。
手のひら全体で。
立ち止まったわけではなかった。
歩きながら——一瞬、壁に触れた。
それだけだった。
次の瞬間——
右手が、腹部に向かった。
触れた。
一秒。
また、進行表に戻した。
何事もなかったように——
インカムの次の確認をしていた。
麻衣は——
その一連の動きを、見ていた。
壁に手をついた瞬間。
腹部に手が向かった瞬間。
一秒。
また戻った瞬間。
麻衣の目が——
その動きを、記録していた。
確認係として。
確認してしまった。
(中村先輩)
心の中で、呼んだ。
声には出さなかった。
今夜が終わったら、話してくれる、と言っていた。
「明日が終わったら、話せると思う。少しだけ」
今夜が終わったら——
聞く。
今は——見ていた。
中村先輩が、また動き始めていた。
進行表を確認しながら。
インカムに向かいながら。
一秒の異変を——
誰にも見せずに、続けていた。
麻衣は、タブレットを開いた。
書いた。
「中村さん:壁に手。腹部に手。一秒。今夜が終わったら、確認する。今は——見ている。」
閉じた。
ステージを見た。
七色が——うねっていた。
三曲目 『君とシフォン日和』
王道の、かわいい曲だった。
各メンバーの「アイドル性」が問われる曲だった。
ゆめいろシフォンの「らしさ」が——
全員から出る曲だった。
莉恋は——笑顔だった。
完璧な笑顔だった。
技術として——完璧だった。
チェリーピンクの衣装が、この曲に一番似合っていた。
一年間——この曲を、この衣装で踊ってきた。
その積み重ねが——
今夜の莉恋の笑顔を、作っていた。
だが——
笑顔の裏側に——
今夜だけの何かがあった。
その重さを——笑顔の裏に置いていた。
置いたまま——踊っていた。
踊りながら——
隣で踊る桃霞を——
見た。
桃霞の視線が——
強かった。
「届かない」視線ではなかった。
何かを探している視線だった。
一万七千人の中の一人を探している視線が。
その視線の強さが——
莉恋に、当たっていた。
直接向けられているのではなかった。
だが——
当たっていた。
(この子は——変わった)
莉恋は踊りながら、確認した。
七月一日に大声で言った言葉が——
今夜、この子の踊りの中に——
何かとして、あった。
言語化できなかった。
だが——
あった。
莉恋は、視線を前に戻した。
客席を見た。
ラベンダーパープルのペンライトを、また探した。
若葉は——踊りながら、見ていた。
分析しようとして——
やめた。
今日は分析しない、と決めていた。
会場全体を——ただ、見た。
一万七千本のペンライトが揺れていた。
七色の光が——波になっていた。
若葉は——その光景を、目に焼き付けた。
数値化せずに。
言語化せずに。
ただ——焼き付けた。
これが——今日の若葉の答えだった。
踊りながら——
「届いてる」という感覚が——来た。
生の現場で——
「届いてる」が来た。
若葉は——
分析しなかった。
そのまま——受け取った。
アリーナ前方、左ブロック。
山田健一の腕が——
解けていた。
気づいたら、解けていた。
三曲目の途中で——
いつの間にか、解けていた。
桃霞を見ていた。
三曲目の桃霞は——
一曲目より、何かが増えていた。
二曲目より、また増えていた。
曲を重ねるごとに——
何かが、積み上がっていた。
技術ではなかった。
技術は——最初から高かった。
積み上がっているのは——
別の何かだった。
「向かっている強さ」が——
増していた。
一万七千人の中の——誰かに向かおうとしている強さが。
その強さが——
三曲目の終わりに——
健一まで届いた。
解けた腕が——
拍手をしていた。
いつから拍手していたのか——
わからなかった。
気づいたら——していた。
「……何だ、この子は」
健一は、小さく言った。
誰にも聞こえない声で。
「完璧じゃないのに——来る」
桃霞の笑顔が——
完璧ではなかった。
だが——
来ていた。
健一のところまで——
確かに、来ていた。
「足音がしない。完璧じゃない。なのに——目が離せない」
健一は言った。
小さく。
自分だけに聞こえる声で。
それが——健一の中で起きていた、正直な変化だった。
三曲目が、終わった。
一万七千人の声が——
また大きくなった。
七人が、ポーズを決めた。
その瞬間——
MCに入る前の、わずかな間があった。
七人が——客席に向かって、立っていた。
一万七千本のペンライトが——
七人を照らしていた。
七色が——
七人に当たっていた。
バックステージ。
麻衣は——
ステージを見ていた。
タブレットを持ったまま。
七人の背中を。
七色の衣装を。
一万七千人の声を——
体で受け取っていた。
処理できなかった。
処理しなかった。
受け取るだけで——
それで十分だった。
中村先輩が、麻衣の近くを通った。
インカムに向かって、話しながら——
通り過ぎた。
麻衣は——
中村先輩の背中を、一秒——見た。
今夜が終わったら——話してくれる。
今は——
中村先輩も、仕事をしていた。
七人を支える仕事を。
その仕事が——今夜、続いていた。
麻衣は、ステージに視線を戻した。
MCが——始まろうとしていた。
莉恋が、マイクを持った。
次の曲に入る前に——
何かが起きる気がした。
麻衣には、わからなかった。
わからないまま——
見ていた。
見続けていた。
今夜——
まだ、終わっていなかった。
続いていた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
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