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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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35/55

第35話 境界線を越えて、光の海へ

六時二十八分




田中はタブレットを見ていた。


配信待機人数。


82,314。


過去最高だった。




一秒後。


82,401。


また増えた。


開演前なのに、まだ増えている。




田中は反射的にスクリーンショットを保存した。


数字は残す。


それが自分の仕事だった。


感動するのは、そのあとでいい。




スマートフォンを開く。


予約していた投稿画面。


指先で確認する。


誤字なし。


タグも問題なし。


田中は投稿ボタンを押した。




いよいよです。


#ゆめいろシフォン横浜アリーナ


投稿。




一秒。


通知が鳴る。


十件。


五十件。


百件。


三百件。


勢いよく流れていく。




田中は画面を閉じた。




数字の向こうにいる人たちが、今夜を待っている。


それだけ確認できれば十分だった。





六時二十九分




「照明、待機」




中村が言った。




「待機」




「映像、待機」




「待機」




「音響、待機」




「待機」




短い応答が返ってくる。


会場全体が一つの神経になったようだった。




中村は進行表を閉じた。


もう見る必要はない。


内容は全部頭に入っていた。




七曲目の乱入演出。


桃霞の導線。


照明切り替え。


映像同期。


全て確認済み。


あとは本番だけだった。




インカム越しに声を出す。




「全セクション、スタンバイ」




一拍。




「本番入ります」




次々と了解が返ってきた。


横浜アリーナ全体が、その一言で引き締まった。





少し離れた場所で。


藤原係長が腕を組んでいた。




スタッフの一人が早足で近づく。




「係長、客席側の誘導完了しました」




「そうか」




短い返事。


それだけだった。


だがスタッフは安心したように頷いた。




係長はステージ袖を見る。




七人がいた。


全員立っている。


全員前を向いている。


それで十分だった。




「問題なし」




小さく呟く。


二十年以上。


数え切れないライブを見てきた。


だから分かる。




今夜は良い。


理由は説明できない。


だが分かる。


現場にいる人間の勘だった。





麻衣はタブレットを開いた。


記録欄。


カーソルが点滅している。




書こうとして止まった。


今は書かない。


終わってから書く。


今見ているものを、途中で文章にしたくなかった。




タブレットを閉じる。


そして七人を見る。


今夜は記録者より先に、目撃者でいたかった。





六時三十分




開演BGMが止まった。


横浜アリーナから音が消える。


一万七千人が息を呑む。




静寂。




一秒。


二秒。


三秒。


暗転。




そして――


七本のスポットライトが点灯した。




歓声が爆発した。


音ではなかった。


衝撃だった。


空気が揺れた。


床が震えた。


壁が震えた。


横浜アリーナそのものが叫んでいた。




ステージ袖。


七人が踏み出す。


暗闇から光へ。


七色の衣装がスポットライトへ向かう。




桃霞が進む。


莉恋が進む。


空が進む。


向日葵が進む。


若葉が進む。


杏が進む。


そして苺が先頭で進む。




一万七千人の光が、七人を迎えた。




アリーナ席。


向こうから、七人が出てきた瞬間——


客席が、爆発した。




和田さくら(26歳)は、ラベンダーパープルのペンライトを持って立っていた。


七人を見た。


最初に目に入ったのは——


莉恋だった。


チェリーピンクの衣装が——


光の中に、現れた。




(え)




思った。


ラベンダーパープルではなかった。


チェリーピンクだった。


一年間、見てきたチェリーピンクが——


今、そこにあった。




「あれ——チェリーピンク?」




隣の人が言った。




「……ラベンダーパープル、じゃないの?」




「あれ——チェリーピンクだよね」




さくらは、莉恋を見た。


チェリーピンクの衣装だった。




だが——


よく見ると。


リボンが——


ラベンダーパープルだった。


袖の裾に、細いラベンダーパープルのレースが入っていた。




チェリーピンクの中に、ラベンダーパープルが混じっていた。




「……両方ある」




さくらは言った。




「チェリーピンクとラベンダーパープルが——同じ衣装に」




隣の人が頷いた。




「それって——」




「チェリーピンクからラベンダーパープルへの、移行期間ってこと?」




「……どういうことだろう」




さくらは、ラベンダーパープルのペンライトを、強く握った。


よかった、と思った。


ラベンダーパープルを持ってきてよかった。




チェリーピンクもあった。


どちらでも——莉恋に届く。




「……ありがとう、莉恋ちゃん」




声に出た。


届くわけがなかった。


でも——言いたかった。




別の場所。


アリーナ前方左ブロック。


山田健一(33歳)は——


腕を組んで、立っていた。




古参のファンだった。


ゆめいろシフォン結成初日から、ライブに来ていた。


新メンバーの発表があったとき——


複雑な気持ちになっていた。




「完成されていた六人に、なぜ加える必要があるのか」




その疑問が、ずっとあった。


七人の中に——桃霞がいた。


初めて実物を見た。




(想定より——)




腕を組んだまま、見た。


写真では見ていた。


かわいい、とは思っていた。




だが——


実物は、違った。




写真と同じ顔が——


光の中にあった。




ただ——


写真と違うのは。


動いていることだった。




立っているだけで——


光を、引いていた。




ピーチピンクのツインテールが、ステージの照明を受けて——


輝いていた。




(想定より、かわいい)




その事実が——腕を組んだまま、来た。




認めたくなかった。


でも——


事実だった。




周囲の人たちが——桃霞を見て、声を上げていた。




「かわいい!!!」


「ピーチピンク!!!」


「桃霞ちゃん!!!」




その声が、アリーナに広がった。




健一は、腕を組んだまま——


桃霞を見ていた。




スタンド席。


伊藤なな(25歳)は——


七人が出てきた瞬間に、泣いた。


理由が分からなかった。


七人を見た瞬間に——


涙が出た。




「なんで泣いてんの、私」




声に出た。


でも——止まらなかった。




莉恋のチェリーピンクを見て——


「ラベンダーパープルじゃない」と思った。




思ったが——


チェリーピンクに、ラベンダーパープルのリボンがあった。




その「移行」が——


ななには、刺さった。




(移行しながら——来てくれた)




チェリーピンクを大事にしながら——


ラベンダーパープルに向かっている。


その途中を——見せてくれた。




桃霞を見た。


写真で見ていた顔が——


動いていた。


ステージの上で。


光の中で。




「かわいい」


では足りない、と思った。




何かが——


この子から、来ていた。


まだ何もしていないのに。


まだ立っているだけなのに。




「何かが来てる」




泣きながら、言った。




『ふわふわユメイロ宣言』




イントロが、鳴り響いた。


デビュー曲だった。




六人体制の——象徴的な曲だった。


ゆめいろシフォンを知っている全員が——


この曲を知っていた。




イントロが流れた瞬間——


客席が、さらに大きくなった。




「キタ!!!!!」


「一曲目これか!!!!」


「うわ、最高!!!!」




七人が——踊り始めた。


六人が踊ってきた曲を——


七人で踊った。




莉恋は——完璧だった。


ここでの「完璧」は、技術の話ではなかった。


技術は、当然あった。




それより——


届いていた。


動くたびに、届いていた。




茶色のツインテールが、振り付けで揺れるたびに——


そのリボンのラベンダーパープルが見えた。




客席の誰かが——毎回、その瞬間に声を上げた。




「莉恋ちゃん!!!」


「ラベンダー!!!」


「チェリーピンクとラベンダーが両方ある!!!」




莉恋は——前を見ていた。


客席を見ていた。


一点を——探しながら。


ラベンダーパープルのペンライトを持つ、一人を。


まだ見つかっていなかった。




だが——


探していた。


探しながら踊っていた。


その「探している顔」が——


完璧な笑顔とは、違う種類の何かを作っていた。




笑顔が崩れていた。


完璧ではなかった。


だが——


その崩れた顔が——


客席に届いていた。




さくらの目に、涙が来た。




「莉恋ちゃん——探してる」




と思った。


何を探しているかは、わからなかった。


でも——探している顔だった。




「ここにいるよ」




さくらは、ラベンダーパープルのペンライトを高く上げた。




桃霞は——踊っていた。


踊れていた。


体が、動いていた。




「出たら動ける」という苺の言葉通り——


出たら、体が動いた。




技術として——問題なかった。


ポジション。


タイミング。


重心。


笑顔。


全部が——体に入っていた。




だが——


今夜は、技術の話ではなかった。




踊りながら——


桃霞は、感じていた。


客席から——何かが来ていた。


言語化できないものが。




一万七千人の声が、音として来ていた。


一万七千人の視線が、圧力として来ていた。


一万七千人の熱が、空気として来ていた。




全部が、体に当たっていた。


処理できなかった。


処理できなかったが——


うずきが、来ていた。


今まで感じた最大のうずきが——


踊りながら、体の中にあった。




(処理不能。分類不能。だが、うずきはそこにある)




踊りながら、確認した。


うずきが——そこにあった。


消えなかった。


踊るほどに——強くなった。




桃霞は、客席を見た。


ピーチピンクのペンライトを、探した。




「ピーチピンク、想定より、多い」




踊りながら、確認した。


一万七千本の中に——ピーチピンクがあった。




自分のために来てくれた人が——


その数だけ、いた。




(届けなければならない)




思考として来た言葉ではなかった。


感覚として、来た言葉だった。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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