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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第34話 ステージに飛び出す

七月四日(土) 午後六時二十五分




ステージ袖。


七人が並んでいた。


暗がりの中で。


光の境界線の前で。




最前列に立つ苺の衣装が、わずかな照明を受けていた。


深いベリーレッド。


胸元を飾る黒レース。


王道アイドル衣装でありながら、


どこかリーダーらしい強さを感じさせる色だった。




その隣で、


空のソーダブルーが淡く光る。


透明なシフォンが幾重にも重なり、


音そのものが形になったような衣装だった。




向日葵のレモンイエローは、


大きなリボンが揺れていた。


動けば誰よりも目立つ。


止まっていても、


今にも跳ね出しそうだった。




若葉のミントグリーンは、


装飾が少しだけ直線的だった。


フリルの中に、


理性の線が通っている。




杏のマンゴーオレンジは、


柔らかな布が幾重にも重なっていた。


暖かな光を纏ったような色だった。




莉恋のチェリーピンクは、


七人の中で最も完成されていた。


フリル。


シフォン。


大きなリボン。


どこを見ても隙がない。


一年間センターを務めてきた積み重ねが、衣装そのものに宿っていた。




そして——


桃霞。


ピーチピンク。




だが、


他の六人とは違った。


リボンが小さい。


装飾も少ない。


シフォンの重なりも控えめだった。


線が細い。


余白が残されている。


完成された六人の中で、


一人だけ未完成だった。




それを隠さない衣装だった。


今の桃霞を、


そのまま形にしたような衣装だった。




空は、目を閉じていた。


聴いていた。


歓声を。


拍手を。


名前を呼ぶ声を。


全部が混ざっていた。




だが——


空には、混ざって聴こえなかった。




高い音があった。


跳ねるような声。


初めて来た人の音。


低い音もあった。




長く通ってきた人たちの音。


待ち続けていた人たちの音。




その全部が重なって——巨大な空気になっていた。




(大きい)




今までで、一番。


過去のライブとは違った。




人間が作る、生の音だった。


ペンライトが振られる音も、混ざっていた。


小さなプラスチックが、空気を切る音。




その無数の音の中へ——


自分の声が入っていく。


歌った瞬間、この空気は変わる。




空は、それを聴こうとしていた。


まだ鳴っていない音を。




「空ちゃん」




向日葵の声。


空は目を開けた。




「……何ですか」




「ずっと目閉じてたけど、大丈夫?」




「……聴いていました」




「何を?」




空は少しだけ、向こうを見た。




「今夜の音を」




向日葵は、少し笑った。




「聴こえた?」




「……まだ全部は。でも」




間。




「響く空間だってことは、わかりました」




「響く空間」




「はい。ちゃんと返ってくる音です」




向こうの歓声が、また大きくなった。


空は、その震えを耳で受け取った。




「……楽しみです」




今夜の音が。





向日葵は、細かく足踏みしていた。


止まらなかった。


緊張すると、体が先に動く。


昔からそうだった。




歓声が来るたび、足の奥が熱くなる。




(来てくれている)




その感覚が、何度も体に入ってきた。




名前も知らない。


毎回来てくれる人がいる。


レモンイエローを振ってくれる人がいる。


その人たちが——


今日も向こうにいる。




「向日葵」




苺の声。




「……なに?」




「足、止まらないね」




「緊張してる?」




「うん。でも、いい感じ」




「そう」


「向日葵の緊張って、前に出る緊張だから」




向日葵は少し笑った。




歓声が、もう一段階大きくなる。


体が反応した。


自然に、前へ出たくなった。




怖い。


でも。




(行きたい)




その感覚が——今、怖さを超えた。




向日葵は、足踏みを止めた。


止めた瞬間、体の向きが変わった。


前へ出るための体になった。




「苺ちゃん」




「うん」




「私、——早く出たい」




苺は笑った。




「じゃあ、もう大丈夫」





若葉は、壁に背を預けていた。


向こうの光を見ていた。


揺れていた。


規則があるように見えた。




どこかに波がある。


光るタイミング。


歓声の返り方。




若葉は——


無意識に法則を探していた。




(違う)




やめた。


今日は、そうしない。


分析ではなく、


見る。


それを決めていた。




だから、ただ見た。


揺れる光を。


揃いきっていない七色を。




その不完全さが——


妙に綺麗だった。




「若葉さん」




空が隣に来た。




「……何ですか」




「今夜、良い音になりそうです」




若葉は少し間を置いた。




「……そうですね」




歓声が、壁を震わせる。


分析できない熱が、そこにはあった。




(楽しみだ)




その感覚が、今ははっきりあった。


若葉には珍しく、怖さより先に来ていた。




「今夜は」




若葉は、小さく言った。




「ちゃんと見ます」




「全部を?」




「……はい。分析しないで」




空が少し笑った。




「それ、若葉さんらしいです」





杏は、ステージ袖の端にいた。


壁際。


そこが、一番感じやすかった。


匂いが来ていた。




汗。


熱。


期待。


緊張。


全部が混ざっていた。




三千人のライブとは違う。


数が増えると、


匂いは「群衆」になる。




杏には、その中の違いがわかった。




初めて来た人の匂い。


長く待っていた人の匂い。


ラベンダーパープルを、まだ少し迷いながら持っている人の匂い。


全部、届いていた。




「杏」




莉恋が来た。


チェリーピンクの衣装。


薄暗い光の中で、色が静かに揺れていた。




「……どう?」




「何が」




「今夜の匂い」




杏は少し考えた。




「……変わる前の匂いがする」




「変わる前」




「うん。みんな、“何かが始まる”と思っている」




「 “何かが始まる”」




杏は頷いた。




莉恋は、客席を見ていた。


ラベンダーパープル。


少ない。


以前のチェリーピンクより、ずっと少ない。




でも。


あった。


確かに。


揺れていた。




今夜。


その色を増やせるかどうか。


それは、自分次第だった。




怖かった。


まだ、ラベンダーパープルは、自分のものではない。


でも。




(向かうしかない)




その感覚は、もう決まっていた。




歓声が、また大きくなった。


床が震えた。


ラベンダーパープルが揺れていた。


その中の——一人を探す。




たった一人に届けば、そこから広がる。


莉恋は、その一点を見ようとしていた。




ステージ袖。


暗がりの向こうに、光があった。


——海だった。




桃霞は、足を止めた。


視界に入る情報を、処理しようとする。


色。数。配置。密度。


だが——追いつかない。




一万七千。




数字としては知っている。


だがそれは、ただの記号だった。


目の前にあるのは——現象だった。


光が揺れている。




最初に目に入ったのは、ベリーレッド。


密度が違う。層になっている。


長く積み重なった支持の色。




次に、ソーダブルー。


レモンイエロー。


ミントグリーン。


マンゴーオレンジ。




それぞれが、ばらばらに揺れているのに——


全体として、一つの波になっていた。




その中に。


ラベンダーパープル。


散発的。


だが、確実に増えている。




——選択の結果。




そして。


ピーチピンク。


想定より、多い。




桃霞は、数えようとして——やめた。


意味がない。




端から端まで、揺れている。


二階席。


スタンド。


アリーナ。


空間そのものが、呼吸していた。




——五人に一人。


自分を見に来ている。




そう判断した瞬間。


別の視線が、引っかかった。




ピーチピンクを持たない観客。


ベリーレッドを握ったまま、こちらを見ている。




笑っていない。


測っている。


期待と、警戒。




長く見続けてきた人間が、新しいものを評価するときの——正確な目。


敵意ではない。


だが、味方でもない。




(この人間たちを、動かす必要がある)




思考として処理しようとした。


その瞬間。


音が、先に来た。




歓声。


拍手。


叫び。


笑い。




すべてが混ざり合い、圧力となって押し寄せる。


床が、震えていた。


振動が、足の裏から体内へ侵入する。




——これは、知らない。




練習には存在しなかった。


体が、対応できない。




桃霞は、動けなかった。




本来であれば。


ここで踏み出す。


「開始」と処理し、行動する。




だが——


今は違う。




処理の前に、感覚が来る。


どうすればいいか、分からない。




「桃霞ちゃん」




声。




振り返る。


苺がいた。




ベリーレッドのポニーテール。


額に、汗。


呼吸は浅い。




——この人間も、緊張している。




だが。


視線は、客席ではなかった。


桃霞を見ていた。




「音、すごいよね」




「……はい」




「私も最初、動けなかった」




桃霞の目が、わずかに開く。




「……苺さんも」




「うん。固まってさ」




苺は、小さく笑った。




「スタッフさんに、押されて出たの」




軽い調子。


嘘ではない。




「でもね」




一歩、近づく。




「出たら、動ける」




断言だった。




「体が覚えているから」




桃霞の内部で、照合が走る。


——正しい。




「桃霞ちゃんは、私より練習してるでしょ」




否定できない。


言葉にせず、肯定する。




「だから大丈夫」




その言葉で。


何かが、動いた。


処理ではない。


もっと原始的な、何か。




「……怖いのか、わかりません」




自分の声だった。




「ただ、体が動かない」




苺は一瞬だけ考えて




「怖くていいよ」




即答した。




「怖くても出られる。出たら動ける」




一拍。




「それが、ライブだから」




桃霞は理解した。




この人は——他人を動かす。


技術ではない。


隣に立てるかどうか。


それだけ。




「……苺さん」




「うん?」




「今日のセンターは、私です」




「そうだよ」




「ですが——」




一瞬、間。




「あなたの方が、適しています」




苺は、目を見開いた。


そして、すぐに首を振る。




「向き不向きじゃないよ」




「……では、何で決まりますか」




少し考えて。




「その人がいることで、みんなが動けるかどうか」




答えは、明確だった。


桃霞は理解する。




「苺さんは、今も動かしています」




「……え?」




「私を」




沈黙。




一秒。


苺の目が揺れて——笑った。




「行こう」




手を差し出す。


桃霞は、それを見る。


初めての接触。


記憶が重なる。




今度は——自分から。




「……はい」




手を取る。


二人は、踏み出した。




他の五人が、踏み出した。




怖さを持ったまま。


期待を持ったまま。


それぞれの「届け方」を持ったまま。




七色が——


光の中へ出ていく。




歓声が爆発した。


その瞬間。


ドラムが——鳴った。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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