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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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33/55

第33話 開演前、七色はまだ揃わない

七月四日(土) 午後六時ちょうど




横浜アリーナが——満席になっていた。


一万七千席。


全ての座席に、人がいた。




開演三十分前。


まだ、客電は落ちていなかった。


観客たちは、それぞれの席で開演を待っていた。




タオルを広げる者。


スマホで写真を撮る者。


友人と話す者。


パンフレットを開く者。


ざわめきが、会場全体を満たしていた。




まだ、ペンライトは光っていなかった。


七色の光は、まだ眠っていた。




一万七千人が、


「始まる瞬間」を待っていた。




その同じ時刻。


バックステージの控室に、七人がいた。




控室


横長の部屋だった。


三面鏡が並んでいた。


明るい照明。




壁際には、七人分の衣装ラック。


ベリーレッド。


ソーダブルー。


レモンイエロー。


ミントグリーン。


マンゴーオレンジ。


ピーチピンク。




そして——


チェリーピンク。




白石莉恋の衣装は、まだチェリーピンクだった。




ラベンダーパープルの衣装は、別のラックにかけられていた。


白いカバーが、まだ閉じていた。




白石莉恋は、鏡の前に座っていた。


チェリーピンクの衣装を着ていた。


一年間、着続けてきた色。


何度もライブをした色。


今日で最後になる色。




莉恋は、鏡の中の自分を見ていた。


チェリーピンクの自分を。


静かに。


長く。




ラベンダーパープルには——まだ触れていなかった。




一回目の衣装替え。


その瞬間まで、開けないと決めていた。




今はまだ——チェリーピンクで立つ。




最後まで。


その時間を、ちゃんと着たかった。




壁の向こうから、歓声が聞こえた。




「うおおおおおっ!!」




誰かの名前が呼ばれる。


笑い声。


ざわめき。


一万七千人分の期待が、壁を震わせていた。




莉恋は、その音を聞いた。


今夜。


このチェリーピンクで、最後にステージへ出る。




杏が、隣に来た。




「……まだ、開けないんだ」




杏の視線は、


カバーのかかったラベンダーパープルに向いていた。




「……うん」




莉恋は、鏡を見たまま答えた。




「一曲目は——チェリーピンクで出たいので」




杏は少し間を置いた。




「……見送りだね」




「……そうかもしれない」




「終わらせてから、変わる」




莉恋は、小さく頷いた。


それから——少しだけ笑った。




「……でも、怖い」




「ラベンダーパープルが?」




「……変わることが」




杏は、カバーの衣装を見た。




「……良い変化の匂いがする」




「匂いでわかるの」




「……たいていは」




莉恋は、少しだけ肩の力を抜いた。




春日苺は、発声をしていた。




「あ、い、う、え、お」




基本から始める。


結成当時から、それは変わらない。


ベリーレッドの衣装は、もう着ていた。




発声しながら、鏡を見る。


七人が映っていた。


ちゃんと——七人いた。




苺は、その光景を見た。


桃霞。


空。


向日葵。


若葉。


杏。


莉恋。


そして、自分。




誰も崩れてはいなかった。


だが。


全員の中で、何かが暴れていた。




怖さ。


期待。


緊張。


届けたいという感情。




それら全部を抱えたまま——


七人は、今夜へ向かっていた。




櫻井桃霞は、鏡の前に座っていた。


ピーチピンクの衣装。




鏡の中の自分を見る。


笑顔を作る。


崩れた。


完璧ではない。


だが——良い、と感じた。




その感覚が、まだ少し不思議だった。


以前の自分なら、


「正確かどうか」しか見なかった。


今は違った。


崩れていても、そこに向かおうとしているものがあった。




壁の向こうで、歓声が大きくなった。


床が、低く震えた。




桃霞は、喉が動くのを感じた。


怖かった。


今までで、一番。




胸の奥が——うずいていた。


桃霞は、鏡の中の自分を見た。




「……届けます」




小さく言った。


届くかどうかは——まだわからなかった。


でも。


向けることだけは、決めていた。




向日葵は、レモンイエローの衣装を見て、




「……かわいい」




と素直に言った。


そのあと、莉恋を見た。


チェリーピンクの莉恋を。




「……やっぱり、莉恋ちゃんはチェリーピンク似合うね」




莉恋は少し間を置いた。




「……最後だけどね」




「うん。でも——最後だから、余計に似合ってる気がする」




向日葵は笑った。




「一曲目、絶対見ちゃうと思う」




「見ないで」




「無理」




莉恋は——少しだけ笑った。


完璧ではない。


少し崩れた笑顔だった。




でも。


今夜の莉恋には、その崩れ方が合っていた。




壁の向こうで、歓声がまた大きくなる。


一万七千人が、待っている。




麻衣は、七人を見た。


チェリーピンクの莉恋。


ピーチピンクの桃霞。


七色。


まだ完成前の七色。


でも——確かに、今ここにあった。




六時二十分。




「そろそろです」




スタッフが声をかけた。


七人が立ち上がった。




最後の確認。


衣装。


髪。


呼吸。




それから——全員が、同じ方向を向いた。


ステージへ向かう方向を。




「行こう」




苺が言った。




七人が、歩き出した。


歓声が、近づいてくる。


床が震えていた。


壁の向こうに——一万七千人がいた。




廊下の光の中を、七色の衣装が進んでいく。


その中に——桃霞の足音が、混じっていた。





観客席の天井の照明は、半分だけ落ちていた。


完全な暗闇ではない。だが、日常とも切り離されている。




境界の時間。




客席は、すでに満ちていた。




ざわめき。


布が擦れる音。


遠くで笑う声。


誰かが名前を呼ぶ。




そのすべてが、天井の高い空間に拡散し、溶けきらずに残っている。




ペンライトが、ぽつりと灯る。


ベリーレッド。


すぐに消える。




別の場所で、ソーダブルー。


ミントグリーン。


レモンイエロー。




試すように。


確かめるように。




まだ揃っていない光。




——呼吸のようだった。


巨大な生き物が、静かに肺を膨らませている。




アリーナ席、中央。




ベリーレッドのペンライトを握った男が、腕を組んで座っていた。


三十代半ば。


ネクタイは緩めているが、スーツはそのまま。


仕事帰りの匂いが、まだ残っている。




視線はステージ。


一度も外さない。




この一年。


彼は、すべてを見てきた。




初期の不安定なフォーメーション。


地方の狭い会場。


ステージより客席の方が緊張していた夜。




それでも、ここまで来た。


だから——簡単には頷かない。




「新メンバー、か……」




低く、独り言。




スマートフォンの画面。


ニュース記事。




——“ゆめいろシフォン、新体制へ”




そこに映る、ピーチピンクの少女。




整っている。


完成されている。




だが。




(現場は別だ)




男は知っている。




ステージに立った瞬間、


すべてが裏返ることを。




「……見せてもらう」




ペンライトを、わずかに振る。




光は、小さい。


だが、確かにそこにある。




その隣。




大学生らしき二人組。




ソーダブルーと、ミントグリーン。




「桃霞ちゃん、顔ちっちゃすぎない?」




「わかる。あと動き、やばくない? 動画の」




スマートフォンを寄せ合う。




再生されるのは、数秒。


それだけで、判断される世界。




「でもさ」




少しだけ、声が落ちる。




「センターでしょ?」




「うん」




「いきなりすぎない?」




沈黙。




期待と、不安が、同じ比率で混ざる。




だが——




「……まあ、苺ちゃんがいるし」




一言。




空気が戻る。




「それはそう」




笑い。




信頼が、前提にある。




——だから、崩れない。


だから、新しいものを受け入れられる。




スタンド席、後方。




中学生の三人組。




手には——ラベンダーパープル。




新品。


袋はまだ、足元に残っている。




「これでいいのかな……」




一人が、小さく言う。




「前、ピンクだったよね」




「うん……」




迷いは、消えていない。




今日、この色を選んだ理由。


それは正解ではない。




ただ——選んだ。




「でもさ」




別の一人が、光を掲げる。




ラベンダーパープル。




淡い。


だが、芯がある。




「似合うよ、莉恋ちゃん」




空気が変わる。




「そう?」




「うん。なんか……」




言葉を探す。




「きっと似合う」




沈黙。




それから。




「……わかる」




小さく、だが確かに。




「ピンクのときより、強い感じ」




「そうそう!」




笑う。




迷いは残る。


だが、それでも来た。




それでも、この色を選んだ。


——それが、彼女たちの答えだった。




通路。




息を切らした若い男が、滑り込む。


手には——ピーチピンク。


包装は、まだ半分ついたまま。




「すみません!」




席に座る。


呼吸が荒い。


隣の友人が笑う。




「ギリギリじゃん」




「売り切れるかと思った……!」




スイッチを入れる。


ピーチピンクが灯る。


少し、震えている。




「初めてなんだよ」




「ライブ?」




「うん」




間。




「桃霞ちゃん、見たくて」




迷いはない。


理由は、言葉にならない。




「なんか……すげえって思った」




探す。


見つからない。


それでも。




「見たいと思った」




それで、十分だった。


会場のあちこちで、同じことが起きている。




一年間見てきた者。


初めて来た者。


疑っている者。


すでに信じている者。




理由は違う。


温度も違う。




だが。


全員が、同じ方向を見ている。




——まだ見ぬ“新生”。




照明が、一部落ちる。


ざわめきが、一段階深くなる。




誰かがペンライトを掲げる。


連鎖する。




ベリーレッド。


ソーダブルー。


レモンイエロー。


ミントグリーン。


マンゴーオレンジ。


ラベンダーパープル。


そして——ピーチピンク。




色が、混ざる。


まだ、揃っていない。




だが——


確実に、一つの瞬間へ向かっている。




ステージは、まだ暗い。


誰も、立っていない。




それでも。


全員が知っている。


ここから、何かが始まる。




期待。


不安。


確信。




すべてが、同時に存在する。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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