第32話 七月四日、届く前
七月四日(土) 午前六時
北海道・札幌 午前六時三分
目覚ましより先に、目が覚めた。
橘まどか(21歳)は、布団の中でスマートフォンを開いた。
暗い部屋に、白い光が広がる。
SNSを開く。
タイムラインには、もう「今日」が流れていた。
「今日だ」
誰もいない部屋で、声に出した。
ゆめいろシフォンをフォローして、一年。
最初のライブは、配信で見た。
今日も——配信だった。
チケットは取れなかった。
販売開始から二十七分。
繋がった頃には、もう終わっていた。
まどかは投稿した。
「今日、現地の人たち羨ましい」
すぐに返信が来る。
「私も取れなかった」
「配信で一緒に見よう」
「現地じゃなくても応援する」
まどかは、その返信を見て少し笑った。
「そうだよね」
それから、桃霞のプロフィール画像を開いた。
真っ直ぐこちらを見る顔。
笑っていない。
でも、目が離れない。
『まだ笑い方を知らないアイドル』
何度見たか分からない言葉だった。
まどかは、小さく打ち込んだ。
「今日、この子どうなるんだろ」
返信が来る。
「わからない。でも気になる」
「ライブ映えしそう」
「なんか“初めて見るタイプ”感ある」
まどかは、その言葉を読みながらベッドを出た。
今日は一日中、ライブのことを考える。
もう、それは決まっていた。
大阪・梅田 午前七時十五分
地下鉄の改札を抜けながら、
松本ひかり(19歳)は片耳だけイヤホンをつけた。
流れていたのは、ゆめいろシフォンのデビュー曲だった。
今日のセットリストは分からない。
だから昨夜は、全曲をシャッフルで流したまま寝た。
「横浜行ってきます」
朝、投稿した文には、もう多くの返信がついていた。
「楽しんできて!」
「現地レポ待ってる」
「羨ましい〜!」
ひかりは歩きながら返信する。
「絶対レポする」
それから、少し迷って投稿した。
「桃霞ちゃんって、どんな子なんだろ。写真だと静かな感じだけど」
返信が流れてくる。
「でもダンスめちゃくちゃ上手いらしい」
「ライブで化けそう」
「格闘技できるって噂ほんと?」
ひかりは少し笑った。
「情報量が多い」
電車がホームに入ってくる。
乗り込む人たちのバッグには、
ゆめいろシフォンのキーホルダーがいくつも揺れていた。
(みんな、今日行くんだ)
そう思った。
東京・代々木 午前八時
和田さくら(26歳)は、コーヒーを淹れながらスマートフォンを見ていた。
最初に好きになったのは、莉恋だった。
チェリーピンク。
崩れない笑顔。
完成されている感じ。
その“完璧さ”が好きだった。
だから、
ラベンダーパープルへの変更が発表された時——
正直、嫌だった。
その気持ちは、本当だった。
さくらは投稿した。
「今日、莉恋ちゃんのラベンダーパープルを初めて見に行きます」
少し止まってから、続きを打つ。
「最初は受け入れられなかった。でも、今は楽しみです」
返信が来た。
「同じ」
「わかる」
「気づいたら楽しみになってた」
さくらは、その言葉を読みながらコーヒーを飲んだ。
「不思議だよね」
と返信する。
昨日届いたばかりの、
ラベンダーパープルのペンライトの箱を見た。
まだ開けていない。
今日、会場で初めて点ける。
それが、なんとなく正しい気がした。
福岡 午前八時三十分
田辺ゆう(17歳)は、制服のリボンを結びながらスマートフォンを見ていた。
今日は土曜日だったが、部活があった。
ライブには行けない。
チケットも取れなかった。
「心だけ横浜行きます」
と投稿する。
「配信で会おう」
「部活がんばれ!」
「終わったら絶対見よう」
返信を読みながら、
ゆうは玄関で靴を履いた。
気になっていたのは、桃霞だった。
「まだ言えない新しい何か」
その言葉が、ずっと引っかかっていた。
「新生ゆめいろシフォンって、どうなるんだろ」
投稿する。
「今日わかる」
「七人並んだ時すごそう」
「なんか空気変わりそう」
ゆうは、その返信で少し止まった。
“空気変わりそう”。
それが、一番近い気がした。
横浜・みなとみらい 午前九時
駅には、キャリーケースを引く音が増えていた。
遠征組だった。
ラベンダーパープルのキーホルダー。
ピーチピンクのバッグチャーム。
去年のライブTシャツ。
いろんな色が、朝の駅を歩いていた。
中島あかね(23歳)は、海の前でスマートフォンを構えた。
写真を撮る。
海。
朝の光。
その向こうの横浜アリーナ。
「横浜来ました」
投稿する。
「今年、なんか緊張感違う」
返信が来る。
「わかる」
「去年と空気違うよね」
「何か始まりそう感ある」
あかねは少し笑った。
近くのベンチでは、
知らない二人組が話していた。
「何時から並ぶ?」
「もう行く?」
初対面らしかった。
でも、自然にゆめいろシフォンの話をしていた。
その空気が、少し面白かった。
午前十時 SNS
タイムラインの流れが、速くなっていた。
「セットリスト予想!」
「一曲目なんだろ」
「新曲ありそう」
「桃霞ちゃんのソロあるかな」
「ラベンダーパープル衣装早く見たい」
「絶対似合う」
「まだ慣れないけど楽しみ」
「「まだ笑い方を知らないアイドル」ってコピー強すぎる」
「ライブ見たら意味わかるのかな」
「今日変わる気がする」
「遠征組どこから?」
「北海道!」
「沖縄!」
「青森から六時間」
「徒歩圏内です(笑)」
タイムラインは、知らない人たちの熱で埋まっていた。
でも、不思議と空気は似ていた。
みんな、何かを待っていた。
午前十一時 東海道線
伊藤なな(25歳)は、窓の外の海を見ていた。
静岡から三時間。
車窓の向こうで、光る海が流れていく。
「横浜近い」
投稿した。
返信が来る。
「いってらっしゃい!」
「絶対楽しい」
「もう泣きそう」
ななは少し笑った。
それから、小さく投稿する。
「今日、誰かに届いてほしいな」
すぐに返信がついた。
「届くよ」
「届けに来るんだから」
「一人には絶対届く」
ななは、その言葉を読んだ。
窓に映る自分が、
少し笑っていた。
午後一時 横浜アリーナ周辺
物販列が、長く伸びていた。
日差しは強かった。
アスファルトが熱を持っていた。
キャリーケースの音。
ペットボトルを開ける音。
遠くの笑い声。
列の途中で、誰かが汗を拭きながら言った。
「もう夏フェスじゃん」
周囲が少し笑った。
知らない者同士だった。
でも、そのあと自然に会話が続いた。
「今日、桃霞ちゃん楽しみで」
「わかる」
「ライブでどうなるか未知すぎる」
前の方では、ラベンダーパープルのペンライトを掲げて写真を撮っている人がいた。
「思ったより綺麗、この色」
投稿が流れる。
「似合いそう」
「今日見たら印象変わりそう」
「もう好きになってきてる」
少しずつ、空気が会場へ向かっていた。
午後二時
「#ゆめいろシフォン横浜アリーナ」
トレンド入りした。
それを見た人たちが、また投稿する。
「きた!!!」
「今日は特別な日だ」
「見届けるぞ」
タイムラインの熱量が、さらに上がっていく。
午後三時
開場まで、あと二時間。
配信勢の投稿も増えていた。
「北海道から応援してます」
「画面越しでも見る」
「今日絶対リアタイする」
「莉恋ちゃん、ラベンダーパープルで立つだけで泣く」
「わかる」
「たぶん登場で泣く」
「七人体制どうなるんだろ」
「想像できない」
「でも見たい」
「桃霞ちゃんが笑った瞬間見たい」
「わかる」
「なんか、その瞬間ありそう」
投稿は止まらなかった。
でも、少しずつ言葉が減っていった。
みんな、本番へ近づいているのを感じていた。
午後四時
開場一時間前。
長い列ができていた。
北海道から来た人と、福岡から来た人が、偶然隣に並んでいた。
「どこから来ました?」
「札幌です」
「え、すご」
そんな会話から、自然にライブの話になる。
「今日、どうなるんですかね」
「分からないです」
少し間があってから、二人とも笑った。
「でも、それが楽しみですよね」
風が吹いた。
ペンライトのストラップが揺れた。
午後五時 開場
ドアが開いた。
一万七千人が、会場へ流れ込んでいく。
ラベンダーパープル。
ピーチピンク。
ベリーレッド。
色が、客席へ広がっていく。
「入場した!」
「席着いた!」
「ステージ近い」
投稿が流れる。
でも、客席へ座った人たちは、少しずつスマートフォンを見る時間が減っていった。
前を向き始めていた。
午後六時二十五分
開演五分前。
会場の照明が、少し落ちた。
一万七千人が、静かに息を吸った。
その瞬間——
SNSの投稿が、一斉に止まった。
スマートフォンを置く音。
ペンライトを握る音。
誰かの小さな息。
「届いてほしい」と書いていた人たちが。
「届く」と返していた人たちが。
今、
同じ方向を向いていた。
会場で。
あるいは画面の前で。
全員が——
ステージを見ていた。
そして。
ステージの照明が、
ゆっくりと変わり始めた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
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