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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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31/55

第31話 横浜アリーナ

静まり返った一万七千席


________________________________________


七月四日(土) 午前十時五十分




横浜アリーナの搬入口から入った。


大きなドアが、内側に開いた。




空気が、変わった。


外の七月の熱気とは違う空気が——


アリーナの中から流れてきた。


冷えた空気だった。


広大な空間が保つ、独特の冷えた空気が。


その中に、微かな——埃と、スチールの匂いが混じっていた。




七人が、搬入口から中に入った。


スタッフが案内した。


廊下を歩いた。


コンクリートの廊下が続いた。


足音が響いた。


六人分の足音と——一人分の足音のなさが。


廊下を、進んだ。




最初に見えたのは、バックステージだった。


機材が並んでいた。 ケーブルが走っていた。 スタッフが動いていた。




だが——それより先に。


アリーナの「気配」が、来た。


壁の向こうに、広大な空間があることが——


空気の圧力として、感じられた。




七人が、それを感じた。


言葉にした者は、いなかった。


感じながら——歩き続けた。




ステージ袖のドアを、スタッフが開けた。




「どうぞ」




その一言で——


全員が、ステージに出た。





春日苺




最初に出た。


いつも最初に出る。


リーダーとして——最初に、立つ。


ステージに足を踏み出した瞬間。


視界が、広がった。




(広い)




その感覚は、何回ライブをやっても——


初めてその会場に立ったとき、必ず来る感覚だった。


今日の「広い」は、今まで感じた全ての「広い」よりも——


大きかった。




正面に——客席が広がっていた。


段になって積み上がる座席が、弧を描いて続いていた。


上まで続いていた。


天井に届く寸前まで——座席があった。


今は、全部空だった。


光が当たった空席が——整然と、静かに並んでいた。




誰もいない。


音がしない。


ただ——そこに、あった。


一万七千席が。




(今夜、埋まる)




その事実が——苺の体の中に入ってきた。




一年間、積み上げてきた全てが——


今夜、この場所に収束する。


ここが、その場所だった。




苺は、客席を見た。


見ながら——胸の中で、何かが動いた。


感情と呼べるものが動いたが——


何の感情かは、言語化しなかった。


言語化する必要がなかった。




ただ——感じた。


ここまで来た、ということを。





水瀬空




ステージに出た瞬間——


音が変わった。


バックステージの音と——アリーナの音は、全く違った。




アリーナは——音が、遠くに行く空間だった。


バックステージでは、音が壁に当たって戻ってくる。


アリーナでは——音が、遠くまで飛んで、どこかに吸い込まれていく。




空は、その音の変化を、体で感じた。


目ではなく——耳で、この空間を確認した。


静かだった。




誰もいない会場は——


静かすぎるほど、静かだった。


この静けさに、今夜——一万七千人分の音が加わる。




声が。 ペンライトの音が。 息遣いが。 泣く音が。 笑う音が。


全部が、この空間に広がる。




空は、その「これから来る音」を——


今の静けさの中で、少しだけ、感じた気がした。




まだそこにない音を——


聴こうとした。




「……大きい」




小さく言った。


音として、そこに置いた。


この空間の大きさを——音で確かめるように。





橘向日葵




出た瞬間に——


「わあ」という声が、出た。


止められなかった。


向日葵は感情を止められない人間だった。


「わあ」という声が、アリーナの空気に広がった。


広がって——消えた。




消えた後に、向日葵は気づいた。


こんなに広い場所に「わあ」という声は、あまりにも小さい。


だが——


小さい声でも、この空間に届いた。


届いた、ということがわかった。


届く空間だった。




「……すごい」




次の言葉が、出た。


今度は少し、大きな声で。


アリーナの空気の中に——


向日葵の声が、広がった。




広がりながら——遠くまで届いた。




向日葵は、客席を見た。


空席が続いていた。


今夜——ここが埋まる。




「……埋まるんだ」




声に出した。


当たり前のことを、声に出した。


でも——声に出すことで、実感が来た。




向日葵は、いつも声に出す。


思ったことを、感じたことを——声に出すことで、実感する。


今日も——声に出した。




「今日、ここで踊るんだ」




その言葉を、客席に向かって言った。


誰もいない客席に向かって。


届かなかった。


だが——言いたかった。





霧島若葉




ステージに出て——


最初にしたことは、空間を測ることだった。


横幅。 奥行き。 天井までの高さ。 客席の段数。


目で測った。


いつもの習慣だった。




だが——


測れなかった。


大きすぎて、目で測れなかった。




いつもなら——数字が来る。


「横が何メートルくらい、客席が何段くらい」という数字が、自動的に来る。


今日は——来なかった。


大きすぎて、数字が追いつかなかった。




若葉は少し、止まった。


測れない、ということが——初めてだった。


どんな場所でも、測ってきた。




だが——今日の横浜アリーナは——測れなかった。




「……数字にならない」




若葉は小さく言った。




「分析できない」と感じた、先週の映像のときと——同じ種類の感覚が来た。


数字にならない。


分析できない。




だが——感じている。


この空間の大きさを。


この空間が今夜持つ意味を。




若葉は、メモ帳を取り出した。


書こうとした。


何も書けなかった。




「……今日は——書けない」




メモ帳を閉じた。




感じることを——今日は分析しない。


それが——今日の若葉の決断だった。





御堂杏




アリーナの匂いを、まず嗅いだ。


冷えた空気の匂い。


ワックスの匂い。 スチールの匂い。 古い布の匂い。 新しい電気系統の匂い。


全部が混じっていた。




その中に、別の匂いがあった。


何の匂いかは——言語化できなかった。




「期待」の匂い、に近かった。


まだ誰も来ていないのに——


この空間に、すでに「何かが来る前の匂い」があった。


会場自体が——今夜のことを、知っているかのような匂いが。




杏は、ゆっくりと客席を見た。


一万七千席が、静かに並んでいた。


誰もいない。




空席ではあったが、「空」ではなかった。


今夜来る人たちの——気配が、すでにそこにあった。


気配、というより——期待の匂いが、あった。


チケットを買った人たちの期待が——空席に、すでに染み込んでいるような。




「……来ている」




杏は小さく言った。




「まだ来ていないのに——来ている」




誰にも伝わらない言葉だったが——杏には、そう感じられた。




一万七千人が——まだここにいないのに——


この空間に、すでにいた。




気配として。


匂いとして。





白石莉恋




ステージに出た瞬間——


足が、止まった。


意図して止まったのではなかった。


止まってしまった。




客席を見た。


広かった。


想像していたより——広かった。




いや——想像できていなかった。


想像という行為が、この空間の前では——小さすぎた。




莉恋は、ゆめいろシフォンのリーダーではなかった。


リーダーの苺が先に出て、全体を見ていた。


莉恋は——一人のメンバーとして、この空間に立っていた。




一年間、ゆめいろシフォンとして立ってきた。


八百人の前に。 千五百人の前に。 三千人の前に。




一万七千人の前には、まだ立っていなかった。


今日が——初めてだった。


その「初めて」が、今——体に来ていた。




「……大きい」




声に出た。


出してしまった、という感じだった。




向日葵とは違う声の出方だった。


向日葵の「わあ」は、感情が先に出た声だった。


莉恋の「大きい」は——体の中から、勝手に出た声だった。




感情が出たのではなく——


事実が、体から出た声だった。




莉恋は、客席を見続けた。


どこを向いても——座席があった。


左も、右も、正面も、斜め上も。


全方向に——座席があった。




今夜、この全方向に——人が来る。


ラベンダーパープルのペンライトを持っている人が——必ず、来る。




苺が言っていた。「絶対にいる」と。


莉恋は、その言葉を思い出した。


思い出しながら——客席の中に、一点を探した。




まだ、見つからなかった。


今夜、見つける。


今はまだ——探している途中だった。





そして——


櫻井桃霞。




桃霞は、最後にステージに出た。


一歩、踏み出した。




視界が、広がった。


客席が、目に入った。


止まった。


意図せず、止まった。




(広い)




その言葉が、来た。


「広い」という言葉が来た後に——次の言葉が、来なかった。




処理しようとした。


できなかった。


一万七千という数字を、知っていた。


数字として、処理できていた。


空間として——処理できなかった。




処理できないまま——桃霞は、客席を見た。


段になって積み上がる座席。


左右に広がる弧。


天井近くまで続く座席。


静かに、整然と、並んでいた。




誰もいない。


静まり返っていた。


この静けさの中で——桃霞は、初めて——言葉を失った。




うずきが、来た。


怖さが、来た。


両方が来た。




どちらかが大きいということは、なかった。


両方が、同じ大きさで——体の中に、来た。




今日、初めて「届けたい」という感覚が、うずきでも怖さでもなく純粋な感覚として、来た。




(ここに、来てくれる人がいる)




一万七千人が、今日——ここに来てくれる。


チケットを買って。


遠い場所から来て。


今日という日を待ちながら。




(その人たちに——届けたい)




「届けたい」という言葉が——


今まで感じた「うずき」の中に——


今日初めて、輪郭を持って、現れた。




桃霞は、動かなかった。


客席を見たまま。


言葉が出なかった。


出そうとしなかった。


今は、言葉が出なくていい。


感じていることを——感じていればいい。





七人が、ステージの上にいた。


七人それぞれが——一万七千の空席を、見ていた。


それぞれの場所で。


それぞれの感覚で。




苺は——「ここまで来た」を感じていた。


空は——「これから来る音」を聴こうとしていた。


向日葵は——「今日、ここで踊る」と声に出していた。


若葉は——「数字にならない」ことを受け入れていた。


杏は——「一万七千人の気配がすでにある」と感じていた。


莉恋は——「一点を探していた」。


桃霞は——「届けたい」という言葉が来ていた。




七人が、同じ空間にいた。


同じ空席を見ていた。




だが——


七人が感じているものは、全部——違った。


違うことが——


この七人だということだった。




しばらく、誰も話さなかった。


七人が、それぞれの感覚の中にいた。


その沈黙を——破ったのは、向日葵だった。




「……今夜、ここが埋まるんだね」




静かな声で言った。




「わあ」と声を出した向日葵が——今度は、静かな声で言った。




誰も答えなかった。


だが——全員が、その言葉を受け取っていた。




「今夜、ここが埋まる」




その事実を。


もう一度、全員で——受け取っていた。




しばらして、苺が言った。




「……行こう」




リハーサルを始める合図だった。


全員が、動き始めた。


それぞれの位置に向かって。




動きながら——


全員の中に、今見た空席の光景が——残っていた。




今夜、埋まる場所の光景が。


今夜、届ける場所の光景が。




麻衣は、ステージ袖で見ていた。


七人がステージに出た瞬間から——


全員の顔を確認し続けていた。




苺の顔。 空の顔。 向日葵の顔。 若葉の顔。 杏の顔。 莉恋の顔。 桃霞の顔。




全員が——


言葉を持てない瞬間を、持っていた。




一万七千席の前で。


それぞれが——言葉より先に、何かを感じた瞬間を。




麻衣は、タブレットにメモした。




「十一時。全員がステージに出た。一万七千の空席を前に——全員、言葉が出なかった瞬間があった。」




書いた。




「それぞれが、それぞれの感じ方で——この空間を受け取った。」




書いた。




「桃霞:言葉を失った。「届けたい」という感覚が、初めて輪郭を持って来た、と後でわかると思う。」




書いた。




「莉恋:足が止まった。客席の中に、一点を探していた。」




書いた。


最後に一行。




「この空席が、今夜一万七千人で埋まる。その瞬間を、私は見る。」




書いた。


タブレットを閉じた。




一万七千の空席が、静かに広がっていた。


誰もいない。


静まり返っていた。




麻衣には分かった。


この静けさは——今夜終わる静けさだった。




今夜、一万七千人が来る。


その人たちの声で。


ペンライトの光で。


七人の歌と踊りで。


この静けさは——埋まる。


今夜。


必ず。




麻衣は、空席を見た。


見ながら——


「信じている」という台帳の言葉を、思い出した。




信じていた。


今、この静かな空席を見ながら——


その静けさが埋まる瞬間を——


信じていた。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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