第30話 七人の朝
七月四日(土) 午前五時四十分
春日苺
目覚ましが鳴る三十分前に、春日苺は目を開けた。
ライブの日は、いつもそうだった。
体の方が、先に今日を知る。
薄い朝の光が、カーテンの隙間から差していた。
苺はベッドの中で天井を見た。
眠れた。
六時間。
十分だった。
ライブ前に眠れる日は、準備が整っている日だ。
眠れない夜は、どこかに引っ掛かりが残っている。
昨夜は違った。
七人で床に座った時間。
向日葵の「怖いね」。
莉恋の「うん」。
あの瞬間、ばらばらだったものが、一度同じ方向を向いた。
苺は起き上がった。
カーテンを開ける。
青空だった。
思わず、小さく息が漏れる。
「……晴れた」
屋内ライブなのに、晴れると嬉しい。
理由は、説明できなかった。
今日は、空まで味方している気がした。
洗面台の前に立つ。
鏡の中に、リーダーの自分がいた。
春日苺。
苺は鏡を見たまま、静かに言った。
「今日——七人で立つ」
声にすると、言葉の重さが変わった。
重い。
でも、その重さは怖さではない。
大事なものの重さだった。
「立てる」
もう一度、言う。
「七人で、立てる」
鏡の中の自分が、わずかに頷いた気がした。
赤いパーカーに袖を通す。
ライブの日は、ずっとこの格好だった。
変えない。
変えないことが、苺にとっての“軸”だった。
朝食を食べながら、SNSを見る。
「今日だ」
「眠れなかった」
「現地行きます」
「配信待機!」
画面を流れる言葉を見ながら、苺は思う。
(みんな、本当に来てくれる)
一万七千人。
数字としては何度も見た。
けれど今朝は、“人”として感じられた。
眠れなかった誰か。
今日のために仕事を休んだ誰か。
新幹線に乗っている誰か。
その全部が、今日ここへ来る。
苺はスマートフォンを伏せた。
今日、届けるものは決まっている。
一年かけて積み上げてきたもの。
七人で積み上げてきたもの。
それを、届ける。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かって、苺は言った。
午前六時
水瀬空
窓を開けると、夏の空気が流れ込んできた。
少し湿った海風。
空は目を閉じる。
鳥の声。
遠くの車。
木々を揺らす風。
朝の横浜には、まだ“本番前の静けさ”があった。
空は、その音を聴いていた。
ライブの日は、音が違う。
街全体が、どこか呼吸を浅くしている。
眠れた。
七時間。
夢の中でも、誰かが歌っていた気がする。
誰の声かは覚えていない。
けれど、不思議と“届いていた”。
窓の外の空は、深い青だった。
昨日より、少しだけ透明な色。
空は昔から、色にも音があると思っていた。
今日の青は、澄んだ高音に似ていた。
「今日の音、いい」
小さく呟く。
一万七千人が集まる前の、静かな朝。
でも空には、もう聞こえていた。
夜に生まれる歓声の残響が。
着替えながら、空は今日のことを考える。
誰に届けるか。
空はいつも、“本当に聴いている一人”を探していた。
歓声ではなく。
熱狂でもなく。
ちゃんと、音楽を受け取る人。
今日もきっといる。
一万七千人の中に、必ず。
「準備はできてる」
その言葉を部屋に置くように、静かに言った。
午前六時三十分
橘向日葵
目覚ましが鳴る。
向日葵は一発で止めた。
「よし!」
勢いよく両手を伸ばす。
眠れた。
七時間以上。
向日葵は、どんな日でも眠れる人間だった。
それが、自分の強さだと思っている。
窓を開ける。
青空。
「やった! 晴れてる!」
声が、そのまま外へ飛んでいく。
向日葵は、感情を声に出す。
昔から、そうだった。
洗面台の鏡を見ながら、昨日の言葉を思い出す。
——誰に向けて踊る?
答えは、もう決まっていた。
毎回来ている、あの人。
名前は知らない。
でも、ライブのたびに同じ場所にいる。
“いる”ことだけは分かる。
気配で。
今日も、きっと来る。
「見つける」
鏡の自分に向かって言う。
その瞬間、少しだけ怖かった。
でも、前を向けた。
パンケーキを焼く。
甘い匂いが部屋に広がる。
木曜日、麻衣に「無理してる」と見抜かれた時から、向日葵は少しずつ変わっていた。
一万七千人全員へ向けようとしていた時、体は重かった。
でも、“一人”を意識した途端、軽くなった。
届けられるかもしれない。
そう思えたから。
向日葵は焼き上がったパンケーキを見ながら、小さく笑った。
「今日、絶対見つける」
午前六時五十分
霧島若葉
目を覚ました時、若葉の手にはスマートフォンがあった。
いつ取ったのか分からない。
眠れた。
五時間。
でも夢の中でも、考えていた。
数字ではなく。
桃霞の笑顔を。
「届いてる」という感覚を。
それが、まだ頭の中に残っていた。
若葉はSNSを見る。
「楽しみ」
「怖い」
「どうなるんだろう」
その言葉を見ながら、無意識にメモを開いていた。
「楽しみ」と「怖い」が同時に存在している。
今日の観客とメンバーは、同じ状態にいる。
書いてから、若葉は苦笑した。
(また分析してる)
今日は分析しない、と決めていたのに。
「……今日は、見る」
声に出して、自分に言い聞かせる。
分析ではなく。
感じるために。
田中へLINEを送る。
「録画設定、確認お願いします」
そこに少し迷ってから、一文を足した。
「……今日、楽しみです」
送信した瞬間、自分で少し驚いた。
返信が来る。
「若葉さんも、楽しみって言うんですね」
若葉は少しだけ笑った。
「……変わっているのかもしれない」
その変化を、今日確認したかった。
午前五時
御堂杏
杏が起きた時、まだ部屋は暗かった。
でも体は、完全に起きていた。
七時間半。
しっかり眠れていた。
窓を開ける。
夏の朝の匂い。
海風。
そこに、別の匂いが混じっていた。
何かが始まる前の匂い。
杏はその空気を、静かに吸い込む。
今日が終わった後、この匂いを思い出す気がした。
鏡を見る。
一秒だけ。
杏は鏡を長く見ない。
見た目より、“感覚”の方が大事だった。
今日の自分は、問題ない。
それだけ分かれば十分だった。
SNSには、「ラベンダーパープル」が並んでいた。
莉恋への期待。
桃霞への興味。
杏は静かに思う。
(今日、全部わかる)
莉恋が何を見るのか。
桃霞が何を掴むのか。
全部、ステージの上で分かる。
「行く」
杏は一言だけ言って、部屋を出た。
午前五時三十分
白石莉恋
莉恋は、ほとんど眠れていなかった。
三時間。
でも不思議と、消耗していなかった。
夢の中で、ラベンダーパープルの照明を浴びていた。
その色は、思ったより悪くなかった。
洗面台の鏡を見る。
チェリーピンク、最後の朝。
莉恋は丁寧に髪を整えた。
今日、色が変わる。
怖い。
まだ怖い。
でも——昨夜、向日葵の「怖いね」に、「うん」と返せた。
怖いまま、立てばいい。
苺がそう言っていた。
莉恋は鏡を見たまま、小さく言う。
「今日——立ちます」
そして続ける。
「ラベンダーパープルのペンライトを、一人探します」
一人でいい。
見つけたら、届ける。
SNSを開く。
「ラベンダーパープルの莉恋ちゃんを見たら、これが正解だったって思う気がする」
その投稿を、莉恋は長く見つめた。
“根拠はないけど”
その言葉に、胸が少し熱くなる。
根拠がなくても、信じてくれる人がいる。
「……ありがとう」
小さく呟く。
そして最後に、もう一度鏡を見る。
「今日——ラベンダーパープルになります」
チェリーピンクの自分へ向けて。
見送りのように。
午前六時十五分
櫻井桃霞
桃霞は、眠っていたのか分からなかった。
意識があるまま、朝になった気がした。
けれど体は整っていた。
それで十分だった。
鏡を見る。
「まだ笑い方を知らないアイドル、櫻井桃霞」
自分のプロフィール文が頭をよぎる。
今日、変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
でも——莉恋に教わった。
“一人を見つける”
一万七千人ではなく。
一人。
その瞬間に、何かが起きるかもしれない。
朝食を食べながら、桃霞は麻衣の台帳を思い出していた。
書類の段階から、自分を見てきた人。
今日、その台帳に何が書かれるのか。
少し気になった。
その“気になる”感覚が、うずきに似ていた。
胸の奥で、何かが動いている。
「うずいてる」
声に出す。
怖さもある。
でも、その隣に、期待もある。
「届けようとする」
桃霞は、静かに言った。
「一人を見つけて——届けようとする」
外へ出る。
七月の朝の光。
青空。
桃霞は空を見上げた。
「今日——一人を見つけます」
空に向かって言う。
届かなくても、言いたかった。
それが、今日最初の“届けようとする”だった。
午前十時
横浜アリーナ
七人が、集まった。
麻衣が出迎える。
苺。
空。
向日葵。
若葉。
杏。
莉恋。
桃霞。
全員、顔が違った。
眠れた顔。
眠れていない顔。
怖さのある顔。
期待を抱えた顔。
でも——全員、崩れていなかった。
「……おはようございます」
麻衣が言う。
「おはようございます」
七人の声が返る。
それぞれ違う声だった。
違う朝を越えてきた声だった。
麻衣はタブレットを開く。
今日の台帳は、まだ空白に近い。
「信じている」
「眠れた」
そこに、これから言葉が増えていく。
今日という日の言葉が。
麻衣は七人を見た。
そして、静かに言った。
「今日が始まります」
苺が頷く。
「……はい」
そのあとに、六人の声が続く。
横浜アリーナのバックステージに、七つの「はい」が広がった。
消えていく。
けれど消える前に、ちゃんと全員へ届いていた。
それが——
今日、最初の「届く」だった。
つづく…
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