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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第29話 今日、七人が立つ

七月四日(土) 午前五時五十二分




浅井麻衣は、目覚ましが鳴る八分前に目を開けた。


天井が見えた。


六畳一間の、見慣れた天井だった。


黄金町のアパート。


いつもと同じ部屋。




だが——今日は、違う朝だった。




(今日だ)




考えるより先に、その言葉があった。


麻衣は布団の中で、小さく息を吐いた。




眠れた。


昨夜、台帳に「信じている」と書いてから——眠れた。


処理しないことにした夜は、眠れる。


それが、この三ヶ月で分かったことだった。




麻衣は天井を見たまま、今日の流れを頭の中で確認した。




八時——ビル集合。


九時——横浜アリーナへ移動。


十時——メンバー集合。


十一時——リハーサル。


十四時——ゲネプロ。


十七時——開場。


十八時三十分——開演。




全部、頭に入っていた。


今日の役割も、変わらない。




確認係。




メンバーの状態を見て、


崩れていないか確認する。


立てる状態にあるか確認する。




ただ——


今日は、一万七千人の前で行われる確認だった。




麻衣は布団から出た。




洗面台の鏡の前に立った。


鏡の中に、自分がいた。


眠れた顔だった。


目の下に、強い疲れは残っていない。




麻衣は顔を洗った。


冷たい水が、頬に触れた。


顔を拭きながら——莉恋のことを思い出した。




鏡の前で、自分を確認し続けていた姿。




「チェリーピンクの自分が、まだそこにいるか確認する」




そう言っていた。


今朝の莉恋は、どんな顔で鏡を見ているだろう。




麻衣は鏡の中の自分を見た。


確認する、ということは——


そこにいる自分を見失わないことだ。


今日の浅井麻衣は、ちゃんとそこにいた。




確認係として。


今日を迎える人間として。


それで、十分だった。




クローゼットを開いた。


ネイビーのジャケットに手を伸ばしかけて——止めた。




今日は「本番前」ではない。


本番だった。




ダークネイビーのパンツスーツを取り出した。


白のシャツブラウス。


黒のローヒール。


動ける格好。




今日は一日、歩く。


バックステージを行き来して、


莉恋の近くにいて、七人の状態を確認し続ける。




スーツに袖を通した。


鏡の中の自分を見る。


自然に、小さく頷いていた。




「今日の自分は、これでいい」




そんな確認だった。




朝食は、トーストとコーヒーにした。


いつもより少しだけ、丁寧な朝だった。




コーヒーを一口飲む。


苦かった。


だが、悪くなかった。




スマートフォンを見ると、SNSはもう動き始めていた。




「今日だ」


「横浜向かいます」


「配信勢、一緒に見よう」




それぞれの場所で、みんなが今日を迎えていた。




一万七千人。


あるいは、その外側にいる人たちも。




麻衣は、その投稿を少しだけ見たあと、台帳を開いた。




「七月四日、朝。眠れた。」




そこまで書いて、止まった。


今朝、書けるのはそれだけだった。


他のことは——今日が終わってから書く。




台帳を閉じた。




午前七時三十分。




アパートを出た。


空が青かった。


雲がなかった。


七月の朝の風が、海の匂いを運んできた。




麻衣はジャケットを着たまま歩いた。


少し暑かった。


だが、今日はこの格好で一日を過ごす。




みなとみらいへ向かう道を歩きながら、麻衣は今日の重さを感じていた。


処理しようとして——やめた。


今日は、処理しない。


感じたものを、そのまま持っておく日だった。




ランドマークタワーが見えてきた。


観覧車は、止まっていた。


昨夜は、光りながら回っていた。


今は静かだった。


だが——夜になれば、また回る。




一万七千人が横浜アリーナに集まる頃、あの光も動き始める。


その夜の下で——七人が立つ。




麻衣は歩き続けた。




午前八時 四階オフィス




オフィスに入ると、すでに人の気配があった。




「おはようございます」




田中聡が振り返った。




濃紺のシャツ。


ジーンズ。


白のスニーカー。




いつもと同じ格好だった。


だが——目が少し赤かった。




「眠れましたか」




麻衣が聞くと、田中は少し笑った。




「三時間くらいです」




「眠れない夜でしたか」




「頭が止まりませんでした」




「何を考えていましたか」




田中は少し考えた。




「……今日、何が起きるのか」




それは昨夜から、みんなが口にしている言葉だった。




何かが起きる。




だが、その正体はまだ誰にも分からない。




「麻衣さんは眠れたんですね」




「はい」




「どうやってですか」




「処理しないことにしたので」




田中が少し笑った。




「麻衣さんらしいですね」




「そうかもしれません」




「今日、何を一番見たいですか」




麻衣は少し考えた。




「……桃霞さんが、一人を見つける瞬間です」




「一人を」




「昨日、向かい始めていました。誰かに」




田中は静かに頷いた。




「届く瞬間、ですね」




「はい」




麻衣はそこで、一度言葉を止めた。


それから、続けた。




「……あと、莉恋さんがラベンダーパープルで立つ瞬間も、見たいです」




「楽しみなんですね」




「……そうですね」




「麻衣さんが「楽しみ」と言うの、変わりましたね」




三ヶ月前なら、使わなかった言葉だった。


麻衣自身、それがわかっていた。




「見続けてきたからだと思います」




「見続けてきた」




「途中を知っていると——続きを見たくなるので」




田中は、少しだけ目を細めた。




「それ、すごく確認係らしい答えですね」




麻衣は、小さく笑った。




八時十五分。




中村麗子がオフィスに入ってきた。




ダークグレーのパンツスーツ。


黒のローヒール。




演出担当として動くための服装だった。




「おはようございます」




「おはようございます。眠れましたか」




「五時間くらい。十分です」




中村先輩は、自分のデスクに進行表を広げた。


何度も確認した紙だった。


だが、今朝も見る。




「今日の動線、最終確認します」




「昨夜も見ていましたよね」




と田中が言った。




「本番前は、何回見ても見足りないの」




そう言いながら、中村先輩は少し笑った。


以前より、その表情が柔らかかった。




「不安ですか」




と麻衣が聞いた。




中村先輩は少し考えた。




「不安というより——ちゃんと届けたい」




「届けたい」




「七人が立てる環境を、ちゃんと作りたい。照明も、音響も、動線も。全部含めて」




進行表に視線を落としたまま、続ける。




「今日という日は、一回しかないから」




その言葉に、麻衣は静かに頷いた。




八時三十分。




藤原係長が入ってきた。




深紺のスーツ。


今日は、深いボルドーのネクタイだった。


少しだけ、いつもと違う色。




「全員いるな」




「はい」




係長はデスクにつき、スケジュールを開いた。




「係長、眠れましたか」




田中が聞く。




係長は一秒だけ沈黙してから答えた。




「……二時間くらいだ」




「やっぱり眠れないんですね」




「大事な日の前は、毎回そうだ」




「何を考えてるんですか」




係長は、パソコンを見たまま言った。




「全員の顔を確認している」




「頭の中で?」




「そうだ」




苺。


空。


向日葵。


若葉。


杏。


莉恋。


そして、桃霞。




「今日、立てる状態にあるか」




麻衣は少しだけ間を置いた。




「……係長も、確認係ですね」




係長は小さく息を吐いた。




「そうかもしれんな」




それだけ言った。




八時五十分。




出発前。




田中が当日用シートを確認していた。


中村先輩がインカムを調整していた。


麻衣はバッグにタブレットと台帳を入れた。




今朝の台帳には、まだ一行しかない。




「眠れた。」




それだけだった。


だが——今夜は、きっと違う。


書けることが、たくさんある夜になる。


そう思った。




「麻衣さん」




田中が声をかけた。




「今日、一番楽しみなのは何ですか」




麻衣は少し考えた。


そして、素直に答えた。




「……七人が並ぶ瞬間です」




田中が少し笑った。




「それ、いいですね」




「たぶん——今日しか見られない七人だから」




初めての七人。


初めての横浜アリーナ。


初めてのラベンダーパープル。


初めて、一万七千人に届く夜。




全部が、今日だけだった。




係長が立ち上がった。




「行くぞ」




全員が立ち上がる。




午前九時。




四人がビルを出た。


空は青かった。


海風が吹いていた。




観覧車は、まだ止まっている。


だが——夜になれば回る。




四人は横浜アリーナへ向かって歩き始めた。




係長の背中。


中村先輩の背中。


田中の背中。


麻衣は、その後ろを歩いた。




スマートフォンを見る。




「今日だ」


「横浜向かいます」


「楽しみ」




そんな言葉が、流れていた。




麻衣はスマートフォンをしまった。


前を向いた。




七人が立つ場所へ。


一万七千人が待つ場所へ。




昨夜、台帳に書いた言葉が頭に残っていた。




「信じている。」




理由は、まだ言葉にならない。


それでも——信じていた。




今日が、誰かに届く日になることを。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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