第28話 信じている
七月三日(金) 夜九時十五分 四階オフィス
メンバーたちを見送ったあと、浅井麻衣はオフィスへ戻った。
パソコンを開く。
画面には、明日の進行表が並んでいた。
十時——メンバー集合。
十一時——リハーサル開始。
十四時——ゲネプロ。
十七時——開場。
十八時三十分——開演。
明日の十八時三十分。
一万七千人の前に、七人が立つ。
麻衣は画面を閉じた。
持ち物確認。
接触スケジュール。
台帳の整理。
一時間もあれば終わるはずだった。
だが、手が止まる。
今夜は、処理できないものが多かった。
スタジオの床に座っていた七人。
向日葵の「怖いね」。
莉恋の「うん」。
あの空気が、まだ胸の中に残っていた。
今夜は——整理しないことにした。
田中聡は、自席で告知スケジュールを確認していた。
開演前投稿。
終演後コメント。
速報テンプレート。
マウスを動かしながら、田中が言う。
「麻衣さん」
「はい」
「今日のメンバー、どうでした?」
麻衣は少しだけ視線を落とした。
「……前を向いていました」
「怖いまま?」
「はい」
田中は、小さく笑った。
「かっこいいですね」
麻衣は答えなかった。
田中が続ける。
「麻衣さんは?」
「……今夜は、書けないものが多いです」
「台帳に?」
「はい」
田中は頷いた。
「前は、全部整理しようとしてましたよね」
「そうでした」
「今は違う」
「持ったままにします」
「変わりましたね」
麻衣は少しだけ黙った。
「……そうかもしれません」
田中は椅子にもたれた。
「俺、今日たぶん眠れないです」
「明日が怖いからですか」
「はい」
「ファンとして?」
「それもあります」
田中は笑った。
「仕事としても怖いです。配信止まったら終わりなんで」
「両方ですね」
「両方です」
しばらく、キーボードの音だけが続いた。
やがて田中が立ち上がる。
「麻衣さん、台帳借りていいですか」
「どうぞ」
台帳を受け取り、田中は一行だけ書いた。
『眠れない夜の朝に来る日が、一番大事だから。——田中聡』
麻衣は、その文字を見た。
「……田中さんらしいですね」
「そうですか?」
「怖さを、ちゃんと持っているので」
田中は照れたように笑った。
九時四十分。
中村麗子がオフィスへ戻ってきた。
ダークグリーンのカーディガン。
白のカットソー。
ブラックパンツ。
「おかえりなさい」
と田中が言う。
「ただいま。みんな帰った?」
「はい」
中村先輩は、自席の進行表を開いた。
細かな書き込みが、余白を埋めている。
搬入。
導線。
演出タイミング。
田中が聞く。
「全部頭に入ってます?」
「入ってる。でも確認しないと落ち着かない」
「何が一番気になります?」
中村先輩は、進行表の一箇所を指で押さえた。
「……乱入演出」
桃霞の場面だった。
「リハでは問題なかった。でも、本番は別」
「一万七千人いますからね」
「音も光も違う。その中で、桃霞ちゃんが笑えるか」
麻衣が静かに言った。
「今日、変わっていました」
中村先輩が顔を上げる。
「どう変わった?」
「……向いていました」
「誰かに?」
「はい」
麻衣は続けた。
「空さんも、若葉さんも、杏さんも——同じ変化を見ています」
中村先輩は少し黙った。
「……なら、信じられる」
窓の外には、みなとみらいの夜景が広がっていた。
「本番でわかるね」
「はい」
「届くかどうか」
十時。
藤原係長が戻ってきた。
濃紺のスーツ。
黒のネクタイ。
「まだいたか」
「はい」
係長はデスクに座り、資料を開いた。
しばらく無言だった。
やがて、
「浅井」
「はい」
「メンバーの状態を聞く」
麻衣は立ち上がった。
「全員、崩れていません」
「莉恋は」
「怖さと——前に出る覚悟が、並び始めています」
係長は短く頷いた。
「桃霞は」
「変化があります。複数人が確認しました」
「誰だ」
「空さん、若葉さん、杏さんです」
係長は資料へ目を戻した。
「……よく見てきた」
「ありがとうございます」
「明日も頼む」
麻衣は、一瞬だけ止まった。
係長が「頼む」と言った。
初めて聞いた気がした。
「はい」
係長は続ける。
「莉恋の近くにいろ。ライブの前も、後も」
「わかりました」
「解決しようとするな。隣に立て」
「……はい」
帰り支度を始める。
パソコンを閉じる。
進行表を畳む。
タブレットをバッグへ入れる。
係長だけが残っていた。
「係長、帰らないんですか」
田中が聞く。
「もう少し確認する」
「毎回やるんですか」
「大事な日の前はな」
田中が少し笑う。
「……係長も怖いんですか」
係長は、進行表を見たまま言った。
「怖くない大事な日は、ない」
沈黙が落ちた。
誰も、すぐには喋らなかった。
廊下へ出る。
エレベーターを待つ間も、三人は静かだった。
一階へ降りる。
自動ドアが開く。
七月の夜風が入ってきた。
「また明日」と田中が言う。
「また明日」と中村先輩。
「また明日」と麻衣。
三人は、それぞれの方向へ歩き出した。
帰り道。
みなとみらいの夜だった。
海風が、温かい。
麻衣は歩きながら、台帳の最後の一行を考えていた。
『成功を願う』
違う気がした。
『七人が立てる状態にある』
それも違った。
観覧車の光が、夜空で静かに回っていた。
アパートに戻り、台帳を開く。
『七月三日、夜。全員を確認した。崩れていない。怖さを持ったまま、前を向いている。』
そこまで書く。
ペンが止まった。
空白を見つめる。
しばらくして、
麻衣は五文字だけ書いた。
『信じている』
理由は書かなかった。
根拠も書かなかった。
台帳を閉じる。
電気を消す。
明日が来る。
七月四日。
横浜アリーナ。
一万七千人。
七人が、立つ。
つづく…
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