第27話 怖いまま、立つ
七月三日(金) 夜 みなとみらい
リハーサルが終わったのは、夜の八時過ぎだった。
みなとみらいには、まだ昼の熱が残っていた。
海風が、ビルの間を抜けていく。
観覧車の光が、静かに回っていた。
春日苺は、ビルを出たところで立ち止まった。
少し遅れて、莉恋が出てきた。
コンビニの方へ歩いていく。
苺は少し考えてから、
その後を追った。
コンビニは近かった。
二人は店に入り、
苺はアイスを、
莉恋はお茶を買った。
外のベンチに並んで座る。
しばらく、話さなかった。
苺はアイスを食べながら、夜景を見ていた。
莉恋は、お茶を持ったまま、まだ開けていなかった。
沈黙のあと、苺が言った。
「莉恋ちゃん」
「……はい」
「一個だけ、言っていい?」
「どうぞ」
苺は少しだけ迷ってから、言った。
「あの日、止めなくてよかったって思ってる」
莉恋の肩が、わずかに止まった。
「……え」
「桃霞ちゃんに言ったとき。私、途中で止めようとした」
「……はい」
「でも、止めなかった」
莉恋は黙っていた。
「莉恋ちゃんの言ってること、正しかったから」
「言い方は、正しくなかったと思います」
「うん。たぶんね」
苺は頷いた。
「でも、あのときの莉恋ちゃん——ちゃんと向かってた」
「向かっていた?」
「一万七千人に」
莉恋は少し目を伏せた。
「あの言葉、本気だったでしょ」
『届かない笑顔で、一万七千人の前に立たないでください』
莉恋は、すぐに答えなかった。
「……怒っていました」
「うん」
「桃霞さんにも。自分にも」
苺は静かに聞いていた。
「でも、一万七千人のことも考えてたと思う」
莉恋は、前を見た。
観覧車が回っていた。
莉恋は少し笑った。
「複雑ですね」
「人の感情って、大体そうじゃない?」
莉恋は、お茶のキャップを見つめたまま言った。
「私は、完璧でいようとしてきました」
「うん」
「でも最近、崩れてばかりです」
「その方が、届くのかも」
莉恋が苺を見た。
苺は続けた。
「完璧な莉恋ちゃんは、すごかった。でも今の莉恋ちゃんは——ちゃんと、一万七千人の前に立とうとしてる感じがする」
「……違いが、まだ分かりません」
「完成してる人じゃなくて、向かってる人になった感じ」
莉恋は、少しだけ息を吐いた。
「……格好悪くないですか」
「格好悪いかもね」
苺は笑った。
「でも、本物っぽい」
少しだけ、莉恋も笑った。
「……桃霞さんにも、同じことを言いました」
「何を?」
「一人に向けないと、届かないと」
「うん」
「聞かれたので、答えました」
苺は少し驚いた顔をした。
「怒られた相手に、聞いたんだ」
「……そうですね」
「それって、信頼されてたんだと思う」
莉恋は黙った。
「……まだ、受け取れていません」
「何を?」
「苺さんの言葉です。止めなくてよかった、という言葉」
苺は頷いた。
「明日、受け取ればいいよ」
「ステージで?」
「うん」
苺は笑った。
「ラベンダーパープル、絶対あるから」
莉恋は少し間を置いた。
「……信じてるんですね」
「それが私の根拠だから」
莉恋は、今度こそキャップを開けた。
一口飲む。
「……私も、信じてみます」
「うん」
「まだ自分のものじゃないままでも——立ってみます」
苺は頷いた。
「それで十分」
二人は、しばらく夜景を見ていた。
観覧車は、止まらずに回っていた。
夜 スタジオ
気づけば、七人がスタジオに残っていた。
帰りかけて戻った者もいた。
理由を言う者はいなかった。
照明は半分だけ。
薄いオレンジ色の光が、
床を照らしていた。
七人は、中央付近に座っていた。
誰も、「頑張ろう」とは言わなかった。
ただ、同じ場所にいた。
沈黙が続いた。
けれど、居心地の悪い沈黙ではなかった。
向日葵が、小さく言った。
「……怖いね」
誰も否定しなかった。
しばらくして、莉恋が答えた。
「うん」
それだけだった。
でも、その一言で空気が変わった。
怖いまま、ここにいていいのだと、全員がわかった。
苺が、ぽつりと言った。
「今日、なんか違う感じする」
「どう違いますか」
と若葉が聞く。
「……うまく言えない。でも、昨日より前に進んでる感じ」
空が静かに言った。
「音が変わっていました」
「音?」
「はい。全員、同じ方向を向き始めています」
杏も頷いた。
「……空気も違いました」
若葉は少し考えてから言った。
「今日の桃霞さんの笑顔——分析する前に、「届いてる」って思いました」
スタジオが静かになった。
桃霞は、少しだけ胸元を押さえた。
「……また、うずきます」
向日葵が笑う。
「まだ止まらないんだ」
「……はい」
桃霞は小さく頷いた。
「届いていると知ると——また届けたくなります」
「止まらなくていいよ」
と苺が言った。
「明日、一万七千人の前で」
桃霞は、ゆっくり頷いた。
沈黙が戻る。
けれど今度は、七人が同じ場所に立っている沈黙だった。
怖さを持ったまま。
莉恋が言った。
「……私も、怖いです」
向日葵が、少し嬉しそうに笑った。
「莉恋ちゃんが言ってくれて、よかった」
莉恋は続けた。
「整っていないまま立てばいいと、苺さんに言われました」
「うん」
と苺が言う。
「だから——怖いまま立とうと思います」
桃霞が、小さく息を吸った。
「……私も怖いです」
全員が桃霞を見る。
「届けようとして——届かなかったときが、怖いです」
少しの沈黙。
それから莉恋が言った。
「怖いまま、立てばいい」
その言葉は、静かに莉恋自身にも戻っていた。
空が、小さく言った。
「……全員、一人に向かっています」
「一人」
と若葉が繰り返した。
「はい。一万七千人の中の、一人です」
誰も、すぐには喋らなかった。
それぞれの胸の中に、誰かがいた。
明日、会いに来る誰かが。
苺が言った。
「……明日だね」
「うん」
と向日葵。
「……届けます」
と莉恋。
桃霞も頷いた。
それだけで、十分だった。
やがて、一人が立ち上がった。
つられるように、全員が立つ。
荷物を持つ。
ドアへ向かう。
「また明日」と向日葵が言った。
「また明日」と若葉が返した。
七人は、スタジオを出ていった。
薄いオレンジの光だけが残る。
床には、まだ七人の体温が残っていた。
廊下 麻衣
麻衣は廊下で待っていた。
確認のためだった。
一人ずつ出てくる七人の顔を、
静かに見る。
全員、怖さを持っていた。
でも、前を向いていた。
最後に出てきた莉恋が言う。
「……また明日」
「はい。また明日」
麻衣は、去っていく七人の背中を見送った。
それぞれが、それぞれの「一人」を抱えて歩いていた。
タブレットを開く。
『七人が立てる状態にある』
そこまで書いて、麻衣は手を止めた。
しばらく画面を見る。
修正は、しなかった。
タブレットを閉じる。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




