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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第26話 誰に向けて踊るか

午後 ロビー


橘向日葵は、ロビーのソファに座っていた。




リハーサルが一段落して、次の確認まで時間があった。


スマートフォンを見ていた。


ゆめいろシフォンのSNSに、ファンからのコメントが流れていた。




「明日!!!」


「待ちきれない」


「横浜アリーナ、行きます!!」


「どうか晴れてほしい」




向日葵は、そのコメントを読んでいた。


読みながら——




(みんな、来てくれる)




そのことが、今日は——体に沁みた。




一万七千人が、来てくれる。


チケットを取るために、二十七分間、画面を見続けた人たちが。


「見逃したらまずいかもしれない」と思いながら動いた人たちが。




来てくれる。




向日葵は、スマートフォンを膝に置いた。


天井を見た。




(明日——私は、誰に向けて踊るんだろう)




その問いが、浮かんだ。


今まで——全体に向けていた。


客席全体に。


一万七千人全体に。




だが——


(一万七千人全体に向けたら、誰にも届かないのかもしれない)




桃霞に言った莉恋の言葉が、向日葵の中でも、動き始めていた。


向日葵は踊りながら、その場面を見ていた。


あの瞬間——莉恋が言った言葉は、桃霞に向けたものだったが——


向日葵にも、刺さっていた。




「届かない笑顔で、一万七千人の前に立たないでください」




向日葵自身は——届けていたのか。


向日葵は、その問いを——今まで考えたことがなかった。




届けることは、当然だと思っていた。


笑顔を向ければ——届く、と思っていた。




だが——


(私の笑顔は、誰に向いていたんだろう)




そのとき。




「向日葵さん」




声がした。


顔を上げた。




桃霞が、ロビーに立っていた。




「……はい」




「……一つ、聞いていいですか」




「何?」




桃霞は少し間を置いた。




「向日葵さんは——踊るとき、誰を見ていますか」




向日葵は、少し——止まった。




その問い。


今自分が考えていたことと——重なった。




「……誰を見てる、か」




「はい」




「……なんで、そんなこと聞くの?」




「昨日、莉恋さんに教えてもらいました。一人に向けないと届かない、と」




「……莉恋ちゃんが」




「はい。深夜スタジオで」




向日葵は、桃霞を見た。




「……二人で、話したんだ」




「はい」




「莉恋ちゃんが——桃霞ちゃんに、そんなことを」




「「届く」ということが、わからなかったので。莉恋さんが教えてくれると思いました」




向日葵は少し間を置いた。




「……なんで、莉恋ちゃんが教えてくれると思ったの?」




桃霞は少し考えた。




「……あの大声が——届いていたから、だと思います」




「え」




「莉恋さんの怒りは——私に届いていました。届いている言葉を持っている人に——聞けばいいと思いました」




向日葵は、その言葉を聞いた。


しばらく、何も言えなかった。




「……莉恋ちゃんの怒りが——届いていた」




「はい」




「……桃霞ちゃん、それ——すごいことだよ」




「そうですか」




「怒られたのに——届いていたって、受け取れるのは」




「……内容が正しかったので」




向日葵は少し考えた。




「……それで、莉恋ちゃんが教えてくれた?」




「はい。「一人に向けないと届かない」と」




「一人に」




「はい。前方全体ではなく——一人を見つけて、その一人に向ける」




向日葵は、スマートフォンを見た。


さっきまで読んでいたコメントが、画面に残っていた。




「明日!!!」


「待ちきれない」




「……私も、考えてた」




と向日葵が言った。




「何を、ですか」




「誰に向けて踊るか。今ここで考えてた」




「……答えは出ましたか」




「……まだ。でも——桃霞ちゃんに聞かれて、少し変わった」




「何が、変わりましたか」




「……一人、いると思った。絶対に来てくれる一人が」




「誰ですか」




向日葵は少し考えた。




「……名前は知らない。でも——毎回来てくれてる人が、いる。ライブのたびに、同じ場所に立ってる人が。その人が明日も来ると思う」




桃霞は、その言葉を聞いた。




「……その人を見ますか」




向日葵は、少しだけ間を置いた。




「……見ようと思う」




その言葉を口にした瞬間、胸が少しだけ怖くなった。


でも、


同時に——前を向きたくなった。




桃霞は、その変化を見ていた。




「……怖いですか」




向日葵は、少し笑った。




「怖いよ」




軽い声だった。


けれど、軽い感情ではなかった。




「でも——たぶん、それでいいんだと思う」




桃霞は、その顔を見ていた。


怖いと言いながら、向日葵は前を向いていた。




「莉恋さんも、似たことを言っていました」




「何て?」




「怖いことと、楽しみなことが——同じ胸の中にある、と」




向日葵は、一度だけ目を伏せた。




「……みんな、同じなんだね」




「同じ、ですか」




「うん。たぶん今、七人とも」




桃霞は、その言葉を受け止めた。




七人。




向日葵は、桃霞を見た。




「今日の三曲目、笑顔変わってたよ」




桃霞の視線が、少しだけ揺れた。




「……わかりましたか」




「うん」




向日葵は、ゆっくり頷いた。




「あっ、て思った」




「何が違いましたか」




向日葵は、すぐには答えなかった。


言葉を探していた。




「……来たから」




「来た」




「向日葵の方に」




桃霞は、黙った。


その言葉を、静かに受け取っていた。




「届いたかどうかは、まだ分からない。でも——来たのは分かった」




桃霞は、一度だけ胸元へ触れた。


呼吸が、少し浅くなっていた。




「……受け取ってもらえた、ということですか」




「うん」




向日葵は笑った。




「ちゃんと、受け取った」




桃霞は、しばらく何も言わなかった。


代わりに、指先が少しだけ握られていた。




向日葵は、その小さな変化を見ていた。




「……ありがとうございます」




「こちらこそ」




「なぜですか」




向日葵は少し考えた。




「桃霞ちゃんと話してたら、私も変わった気がするから」




「変わった」




「誰に届けたいか、初めて意識した」




桃霞は、その言葉を聞いた。




向日葵も変わっている。


自分だけではなかった。




「……向日葵さん」




「うん?」




「見つかりますように」




向日葵は、一瞬止まった。




「……え?」




「その人」




桃霞は続けた。




「明日、ちゃんと見つかりますように」




言ってから、桃霞自身が少し黙った。




なぜ今、そんな言葉を口にしたのか。


まだ完全には、理解できていなかった。


けれど——


その言葉は確かに、向日葵のためのものだった。




向日葵は、小さく笑った。


少しだけ目が潤んでいた。




「……それ、祈りだよ」




「祈り」




「うん」




向日葵は、優しく言った。




「桃霞ちゃん、祈れるようになったんだね」




桃霞は、その言葉の意味を深く考えた。




祈る。


誰かのためを願うこと。


自分のためではなく。




胸の奥が、少し熱かった。


桃霞は、ゆっくり息を吸った。




「……そうかもしれません」




向日葵は立ち上がった。


スマートフォンをポケットへ入れる。




「明日、絶対見つける」




「はい」




「桃霞ちゃんも——一人に届けて」




桃霞は、小さく頷いた。




「……約束します」




二人は、少しだけ笑った。




完璧な笑顔ではなかった。


でも——


ちゃんと相手へ向いている笑顔だった。




それから、それぞれの方向へ歩き出した。


明日へ向かうように。




つづく…





▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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