第25話 向かっている笑顔
七月三日(金) 午前 リハーサルスタジオ
ライブ前日だった。
横浜の空は、今日も青かった。
梅雨明けの光が、スタジオの窓から差し込んでいる。
空調の冷気が、均一に流れていた。
今日のリハーサルは、午前から始まった。
最後の通し稽古だった。
全曲を止めずに流す。
本番と同じ順番で。
本番と同じ流れで。
違うのは——衣装だけだった。
七人が位置につく。
音楽が流れた。
水瀬空は、踊りながら聴いていた。
音楽を。
七人の呼吸を。
床を擦るわずかな音を。
空気の流れを。
空にとって、スタジオは音の集まりだった。
誰が迷っているか。
誰が張っているか。
誰が少し笑ったか。
音が、先に教えてくれた。
三曲目に入った時だった。
空は、ほんの少しだけ視線を動かした。
桃霞。
昨日までと、違った。
変わった、というより——
どこかへ向かっていた。
足音は、相変わらずしない。
それでも今日は、
踊りの中に、微かな“行き先”があった。
空は、その感覚を追いながら踊った。
昨日の桃霞は、
閉じた部屋の中で踊っているみたいだった。
今日は違う。
何かが、
外へ伸びていた。
五曲目が終わる。
音楽が切れ、
全員が水を取りに散った。
空はペットボトルを持ったまま、
桃霞の方へ歩いた。
桃霞は、スタジオ端で水を飲んでいた。
「……桃霞さん」
桃霞が振り返る。
「空さん」
「少し、聞いていいですか」
「はい」
空は少しだけ迷った。
「……今日、踊りが変わりました」
桃霞は静かに空を見る。
「どこがですか」
「……昨日までより、近いです」
「近い」
「はい。前は、すごく綺麗なだけした。でも今日は——誰かの方へ向かっている感じがします」
桃霞は、その言葉を聞いていた。
胸の奥が、
わずかに熱を持つ。
「……昨日、変わったことがありました」
「何がありましたか」
「……深夜に、莉恋さんと話しました」
空は、小さく頷いた。
「莉恋さんだけに向けて、踊りました」
「そうですか」
「その時、自分でも少し違いました」
「……今日、その違いが出ています」
桃霞は少し黙った。
「……足音のしない私でも、変われますか」
空は、少し考えた。
「……足音は、前からしません。でも今日は、ちゃんといます」
「いる」
「はい。踊りの中に」
桃霞は、水の入ったペットボトルを見た。
透明な水面が、
少し揺れていた。
「……ありがとうございます」
「私は、聴いただけです」
「聴いてくれていたことが、わかったので」
空は少しだけ笑った。
「……今日のスタジオ、好きです」
「好き」
「音が増えた感じがするので」
振付師が「続けましょう」と声を上げた。
二人は、それぞれの位置へ戻る。
音楽が流れた。
午後 オフィス 霧島若葉のデスク
若葉は、リハーサル映像を見返していた。
ノートパソコン。
片耳だけのイヤホン。
机の横には、開いたメモ帳。
それは、いつもの光景だった。
映像を確認する。
ズレを探す。
タイミングを記録する。
若葉にとって、
分析は呼吸に近かった。
一曲目。
確認した。
二曲目。
確認した。
三曲目。
そこで、止まった。
画面の中で、
桃霞が笑っていた。
若葉は、何秒もその場面を見ていた。
分析しようとした。
口角。
視線。
頬の動き。
タイミング。
いつもなら、
数値に落とせた。
だが今日は——できなかった。
その前に、
別の感覚が来た。
「……届いている」
声が出ていた。
若葉は、自分の声を聞いた。
分析ではなく、
感情の方が先に出た。
それが、少し信じられなかった。
若葉は、もう一度再生した。
同じ場面。
また、
同じ感覚が来た。
桃霞の笑顔は、昨日までより少し崩れていた。
だが、その崩れ方が——近かった。
若葉は、イヤホンを外した。
しばらく、動かなかった。
それから、田中へLINEを送った。
今日の映像を確認していました。
三曲目後半の桃霞さんの笑顔で、
分析より先に「届いてる」という感覚が来ました。
数値化できませんでした。
返信は、すぐに来た。
それ、かなり大きいことだと思います。
若葉さんが「数値化できない」って言うの、初めて聞きました。
若葉は、その文を見た。
それから、ゆっくり打った。
……向ける先が、生まれたのかもしれません。
だから、崩れているのに残る感じがします。
送信したあと、若葉はもう一度、映像を見た。
桃霞の笑顔は、画面の中で止まっていた。
完璧ではなかった。
でも、目が離れなかった。
午後 廊下
若葉は、麻衣を呼び止めた。
「浅井さん、少しいいですか」
「はい」
「今日の映像を確認していました」
麻衣は頷く。
「何かありましたか」
若葉は少し考えた。
「……分析できない場面がありました」
麻衣の目が、少しだけ止まる。
「どの場面ですか」
「三曲目後半です。桃霞さんの笑顔を見た時——先に「届いてる」と思いました」
「分析より先に」
「はい」
若葉は、自分のメモ帳を見た。
そこには、整った文字で書かれていた。
「三曲目後半」
「桃霞・変化あり」
「数値化前に感覚発生」
「届いてる」
若葉は、その最後の一行を見つめた。
「……感情の言葉を、先に書いたのは初めてかもしれません」
麻衣は、静かに聞いていた。
「空さんも、今日似たことを言っていました」
「空さんが」
「桃霞さんの踊りが、近くなったと」
若葉は少し黙った。
別々の人間が、
同じ場所で、
同じ変化を見ていた。
麻衣はタブレットを開く。
短く、記録した。
「空、若葉、両者とも桃霞の変化を観測」
そこまで書いて、少し止まる。
それから続けた。
「昨日までより、“向いている”」
若葉は、その文字を見た。
「……麻衣さんも、そう思いましたか」
「はい」
「……今日の桃霞さん、前より人に見えました」
若葉は、その言葉を聞いた。
不思議と、否定できなかった。
七月三日の朝。
リハーサル開始前。
杏は、スタジオ前の廊下を歩いていた。
中から音がした。
音楽だった。
まだ集合時間前だった。
誰かが、先に来ている。
杏は、足を止めた。
ドアの小窓から、中を見る。
桃霞だった。
一人で踊っていた。
昨日と同じ、鏡の前。
だが——違った。
昨日は、笑顔を「作って」いた。
今日は、踊りの中で笑顔が出ていた。
崩れていた。
少しだけ。
完璧ではなかった。
けれど——向いていた。
鏡の中の自分へ。
その匂いを、杏は感じた。
昨日は、なかった。
今日は、ある。
向かっている匂いだった。
まだ、届いているかどうかは分からない。
でも——向けていた。
誰かへ向けようとする瞬間にしか生まれない匂いが、確かにあった。
杏は、小窓から離れた。
桃霞は何かを見つけたのだと思った。
自分で見つけた。
だから、匂いが変わった。
杏は何も言わなかった。
それでよかった。
見つけたのは、桃霞自身だったから。
リハーサルの、三曲目だった。
春日苺は、踊りながら——全員を見ていた。
それは、リーダーとしての習慣だった。
踊りながら、全員を見る。
ズレを見つける。
乱れを見つける。
だが今日は——
ズレを探しているのではなかった。
変化を——探していた。
七月一日から、二日が経っていた。
莉恋が爆発した日から。
桃霞に大声で言った日から。
あの日の空気が——まだ、スタジオに残っていた。
残ったまま、全員が踊り続けていた。
苺は、踊りながら——莉恋を見た。
今日の莉恋は、昨日より——前を向いていた。
昨日は「静かすぎる」莉恋だったが、今日は——踊りの重心が、少し前に出ていた。
何かが変わった、と苺は感じた。
(莉恋ちゃん、何かがあったんだ)
感じながら、踊り続けた。
次に——桃霞を見た。
三曲目の後半。
桃霞の笑顔が出る場面だった。
苺は——
止まりそうになった。
止まらなかった。
踊り続けた。
だが——胸の中で、何かが動いた。
(今のは——)
さっきまでの桃霞の笑顔とは、違った。
七月一日より前の桃霞の笑顔とは、違った。
完璧ではなかった。
崩れていた。
崩れた笑顔が——前を向いていた。
前、というよりも——
誰かに向いていた。
どこに向いているかは、苺には分からなかった。
だが——向いていた。
それだけが、はっきりと——分かった。
苺は踊り続けた。
胸の中の何かが、じわじわと広がっていた。
(変わった)
(何かが、変わった)
その「何か」が何なのかは——まだ言語化できなかった。
だが——確かに、変わっていた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




