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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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24/55

第24話 一万七千人の中の一人

七月二日(木) 深夜十一時四十分 リハーサルスタジオ




スタジオは、深夜だった。


建物の中に、人の気配はなかった。


廊下の蛍光灯は半分だけ点いていた。


節電設定の白い光が、細く床へ落ちている。


スタジオのドアは閉まっていた。


だが——




中から、音が聞こえた。


音楽というより、低いビートだけが流れている。


そして——


足音が、しなかった。




白石莉恋は、廊下を歩いていた。


紺のパーカーに、黒のスウェットパンツ。


練習着ではなかった。


家を出たままの格好だった。




眠れなかった。




眠れないまま、気づけば電車に乗っていた。


理由は、自分でも分からなかった。




ただ——


ここへ来ていた。




セキュリティを抜け、廊下を歩き、スタジオの前で止まる。


中から、低いビートが聞こえる。


足音は——しなかった。




莉恋はドアに手をかけた。


少し迷ってから、開けた。




スタジオの中は、本来の照明ではなかった。


天井灯は落ちている。


床際の補助照明だけが点いていた。


薄いオレンジ色の光が、低く床を照らしている。


昼間とは、まるで別の場所だった。




その中央に、桃霞がいた。


踊っていた。


七曲目の振り付けだった。




昨日、莉恋が声を荒げた——あの場面。




桃霞は、音楽に合わせているようで、どこか違った。


リズムの中にいるのに、リズムの外にいるようだった。




莉恋が入ってきたことにも気づいていた。


だが、止まらなかった。


足音を立てないまま、踊り続けた。




莉恋がドアを閉める。


小さな音がした。


その音で、桃霞が止まった。




モニターのボリュームを下げる。


ビートが遠くなる。


静寂が戻った。




二人だけが、薄いオレンジの光の中にいた。




「……何時間いますか」




莉恋が聞いた。


桃霞は少し考えた。




「……確認していませんでした」




「リハーサルが終わってから、ずっとですか」




「……はい」




「何をしていましたか」




「踊っていました」




「何のために」




桃霞は、少し黙った。




「……わからなくなったので」




「何が」




「……踊ることの、意味が」




莉恋は、桃霞を見る。


昼間とは違う顔だった。


完璧な表情ではなかった。


何かを探している顔だった。




莉恋はスタジオの端へ行き、壁に背を預けた。




「……来てしまいました」




「なぜですか」




「……眠れなかったので」




「昨日のことが」




「……はい」




桃霞は、莉恋を見る。




「……謝りに来たんですか」




「昨日、謝りました」




「もう一度、ですか」




「……違います」




莉恋は壁を見る。




「……自分でもわからないです。なんで来たのか」




しばらく沈黙があった。


遠くで、ビートだけが低く流れている。




桃霞が言った。




「……一つ、聞いていいですか」




「どうぞ」




「「届く」というのは——何ですか」




莉恋は、すぐには答えなかった。


天井を見た。


もちろん、そこに答えはなかった。




「……どうすれば、届くんですか」




桃霞が、もう一度聞く。




「昨日、莉恋さんに言われました。「届かない笑顔で立つな」と。でも——私は、まだわかりません」




「わからないから、踊ってたんですか」




「……はい。踊り続ければ、わかるかと思いました」




「わかりましたか」




桃霞は、小さく首を横に振った。


莉恋は、その仕草を見ていた。


何時間も踊って、なおわからない。


その事実を、桃霞は隠していなかった。




「……一つ、聞いていいですか」




莉恋が言った。




「はい」




「今日——踊っている時、誰を見ていましたか」




桃霞は、答えなかった。


沈黙が落ちる。




一秒。


二秒。


三秒。




桃霞の視線が、わずかに揺れた。




「……前方の客席を」




「前方全体ですか」




「……はい」




「その時、誰か一人の顔は見えましたか」




桃霞は考えた。




「……見えませんでした」




「なぜだと思いますか」




「……一万七千人いるので」




「一万七千人いたら、見えないんですか」




桃霞は少し黙った。




「……見えないと思っていました」




「……私、最初のライブが八百人だったんです」




「……はい」




「その時、全員を見ようとして——誰も見えませんでした」




桃霞は、莉恋を見た。




「……そのあと、どうしたんですか」




「一人だけ見ました」




「一人」




「最前列の、左から三番目にいた人です。ペンライトを、すごく必死に振ってて」




莉恋は少し笑った。




「汗まで見えたんです。なんでか」




「……それで、届いたんですか」




莉恋は少し考えた。




「……正直、今でもわからないです。でも——その時だけ、ちゃんと届けようと思えました」




桃霞は、その言葉を静かに聞いていた。




「……私は、一万七千人に向けていたんですね」




「……そう見えました」




「だから——誰にも向いていなかった」




莉恋は、答えなかった。


けれど、その沈黙で十分だった。




桃霞は、スタジオ中央に立ったまま動かなかった。


薄いオレンジの光が、床を照らしている。




「……胸が、変です」




桃霞が言った。




「変」




「……さっきの話を聞いてから、少し熱いです」




莉恋は、小さく息を吐いた。




「……私も、最初は意味なんてわかりませんでした」




「わからないまま、やった」




「はい。たぶん今も、ちゃんとはわかってないです」




桃霞は、少しだけ目を伏せた。




「……莉恋さんは、一万七千人の前でも、一人を見ますか」




「……怖いですけど、見ると思います」




「怖い」




「一人を見ると、届かなかった時にわかるから」




桃霞は、その言葉を聞いた。


胸の奥が、少しだけ重くなった。




「……私は、逃げていたのでしょうか」




「……どうなんでしょう」




莉恋は、少し困ったように笑った。




「でも、全体に向けてると、傷つかなくて済む時はあります」




桃霞は、長く黙った。


それから、小さく言った。




「……ありがとうございます」




「何がですか」




「昨日、言ってくれたことです」




莉恋は視線を落とした。




「……言い方、悪かったです」




「でも、残りました」




桃霞の目は、昼間と違っていた。


探している目ではなく、


何かに触れたあとの目だった。




「……もう一度、踊りますか」




莉恋が言った。




「……はい」




「今度は、一人を見ながら」




桃霞は少し間を置いた。




「……ここには、一人しかいません」




「じゃあ、私を見てください」




桃霞が、莉恋を見る。




「……莉恋さんに向けて?」




「はい」




「昨日、大声を出した人に」




「……はい」




少し沈黙があった。




「……わかりました」




桃霞はスタジオ中央へ戻った。


モニターの音量を少し上げる。


低いビートが戻ってきた。




そして——踊り始めた。


七曲目の振り付けを。


今度は、莉恋へ向けながら。




莉恋は壁に寄りかかったまま、見ていた。




技術は変わらない。


リズムも、角度も、完璧だった。




でも——違った。




向かってきた。




桃霞の踊りが、初めて莉恋へ向かってきた。




笑顔が出た。


完璧な笑顔ではなかった。


少しだけ、揺れていた。




でも——


届いた。




莉恋の胸の、どこかへ。




昨日の言葉が、静かに形を変える。




「届かない笑顔で立つな」




その言葉が今夜、別の意味になった。


届く笑顔を、初めて見た。




踊りが終わった。


ビートが遠くなる。


スタジオが静かになった。




「……今の」




莉恋が言う。




「はい」




「届きました」




桃霞は、少しだけ息を止めた。




「……どこが違いましたか」




莉恋は少し考えた。




「……近かったです」




「近い」




「完璧なのに、ちゃんと人がいた感じがしました」




桃霞は、その言葉を聞いた。


胸の奥に残っていた熱が、少し広がった。




「……今、一番変です」




「はい」




「でも——嫌じゃないです」




莉恋は、小さく笑った。




「……それでいい気がします」




しばらく、二人は黙っていた。


ビートだけが低く流れている。




やがて莉恋が、壁から身体を離した。




「……帰ります」




「はい」




「また、明日」




「はい」




ドアが開く。


廊下の薄い光が、スタジオへ差し込んだ。




莉恋が出ていく。


ドアが閉まる。




桃霞だけが残った。


桃霞は、鏡を見る。


鏡の中に、自分がいた。


今まで、誰にも向けていなかった自分。


今夜、初めて誰かへ向けた自分。


どちらも、自分だった。




桃霞は、もう一度踊り始めた。


鏡の中の自分へ向けながら。




笑顔が出た。


完璧ではなかった。


少し崩れていた。




でも。


今夜初めて、


鏡の中の自分に——届いていた。





つづく…





▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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