第23話 昨日の後
七月二日(木) 朝 スタジオ前廊下
昨日の言葉は、まだ残っていた。
もちろん、廊下に何か落ちているわけではない。
蛍光灯の白い光。
リノリウムの床。
冷えすぎた空調。
全部、いつも通りだった。
それでも——何かが、元に戻っていなかった。
浅井麻衣は、スタジオ前で少し立ち止まった。
ドアの向こうから、音楽が聞こえる。
午前のリハーサルは、もう始まっていた。
ライトグレーのジャケットの袖を軽く直し、ドアを開ける。
音が広がった。
七人が踊っていた。
いつも通りの振り付け。
いつも通りの立ち位置。
いつも通りの通し練習。
だが、麻衣はすぐに気づいた。
昨日までと、少し違う。
スタジオ端へ移動し、タブレットを開く。
最初に目に入ったのは、苺だった。
踊りながら、全員を見ている。
それはいつものことだった。
だが今日は、視線が何度も同じ場所へ戻る。
莉恋。
そして桃霞。
交互に。
確認しているようにも、心配しているようにも見えた。
苺自身も、その視線の意味を整理できていないようだった。
向日葵は、静かだった。
いつもなら、
「もう一回!」
「そこ合ってる?」
と、自然に声が飛ぶ。
今日は少ない。
笑っている。
動きも軽い。
だが、どこか慎重だった。
無意識に、空気を壊さないようにしている。
そんなふうに見えた。
若葉は、メモ帳を持っていなかった。
麻衣は少しだけ視線を止める。
若葉が記録を手放すのは珍しい。
踊りながら全体を見ていた。
大局的な視線は変わらない。
だが今日は、
「分析している」というより、
「答えを探している」ようだった。
空は、音を聴いていた。
いつもより、少し長く。
誰の音かは分からない。
ただ、耳の向きだけが、昨日より繊細だった。
杏は変わらない。
変わらないように見える。
だが、麻衣は知っている。
杏は空気の変化に敏感だ。
踊りながら、
何かを確かめている。
それだけはわかった。
そして——莉恋。
静かだった。
昨日、大きな声を出した人間とは思えないほど、静かだった。
踊りは正確だった。
音程も、リズムも、全部合っている。
でも、目だけが違う。
鏡を見ている。
けれど、
何かを確認している視線ではなかった。
昨日、自分が投げた言葉を、
まだ受け止めきれていない。
そんな目だった。
麻衣は視線を移す。
桃霞。
完璧だった。
昨日と同じように。
今日も、一つも崩れない。
だが——
違った。
昨日までの桃霞は、
踊りながら、どこか遠かった。
今日の桃霞は違う。
遠くない。
何かを持ったまま、踊っていた。
その「何か」が何なのか、
麻衣にはまだ分からなかった。
ただ、
昨日より少しだけ、
人間に近かった。
一時間後、休憩。
音楽が止まり、空気が緩む。
向日葵が何か言いかけ、途中で笑ってやめた。
若葉はスマートフォンを開き、すぐ閉じる。
空は窓の外を見た。
曇り空だった。
梅雨明けしたはずなのに、
今日は雲が低い。
杏は、壁際に立っていた。
タオルを首にかけたまま、動かない。
いや——動いていないように見えるだけだった。
空気を嗅いでいた。
莉恋は鏡の前に立っていた。
見ている。
ただ、それだけだった。
桃霞はスタジオ中央に残っていた。
座らない。
水も飲まない。
静かに立っている。
その姿を見て、
苺が一瞬だけ視線を止めた。
だが、何も言わなかった。
麻衣は、その空気を見る。
昨日みたいな熱はない。
ぶつかる音もない。
けれど、
冷え切ってもいなかった。
昨日の言葉だけが、
まだ七人の間に残っている。
消えていない。
休憩が終わる。
音楽が流れる。
七人が位置につく。
踊り始める。
その時だった。
桃霞の視線が、鏡の中の莉恋へ向いた。
ほんの一瞬。
だが、昨日までにはなかった視線だった。
莉恋は気づいていない。
それでも——
何かは、確かに変わっていた。
麻衣はタブレットへ視線を落としかけ、
やめた。
まだ、言葉にしなくていい気がした。
午後 廊下
麻衣が資料を確認していると、桃霞が廊下を通った。
足音がしない。
桃霞は少し止まり、麻衣を見る。
「……昨日の夜、残っていましたか」
「廊下にいました」
桃霞は少し黙った。
「あの後、しばらく踊っていました」
「そうですか」
「……変わったのかは、わかりません」
麻衣は答えなかった。
桃霞も続けなかった。
少し沈黙が落ちる。
「でも」
桃霞が言う。
「昨日までより、少し重いです」
「何がですか」
桃霞は考える。
だが、すぐには答えなかった。
「……うまく言えません」
麻衣は小さく頷く。
その「わからなさ」は、
たぶん大事だった。
「処理しなくていいかもしれません」
桃霞が麻衣を見る。
「重いまま、立てる人もいます」
桃霞は、少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれません」
歩き出す。
やはり、足音はしなかった。
午後 廊下
今度は莉恋とすれ違った。
昨日と違い、
莉恋は止まった。
「……昨日、すみませんでした」
「もう聞きました」
莉恋が少しだけ困ったように笑う。
「照明の確認、まだありますか」
「あります」
タブレットを開く。
ラベンダーパープルの照明資料。
「本番は、出力が上がります。色の見え方も少し変わると思います」
「……わかりました」
莉恋は資料を見る。
その横顔は、昨日より少し落ち着いていた。
「何か、変わりましたか」
莉恋はすぐには答えなかった。
廊下の先を見る。
「……まだ、わからないです」
小さな声だった。
「でも、昨日と同じ場所にはいない気がします」
麻衣は、その言葉を聞く。
前に進んだのか。
まだ迷っているのか。
それは、麻衣にもわからなかった。
ただ——止まってはいない。
そんな気がした。
夕方 最後の通し稽古
七人が踊っていた。
苺の視線は、
朝より柔らかくなっていた。
向日葵は、
午後に一度だけ大きな声を出した。
若葉は、メモ帳を開いて、閉じた。
空は、スタジオ全体の音を聴いていた。
杏は、何も言わない。
莉恋は、鏡へ問いかけるみたいに踊っていた。
そして桃霞は——
重さを持ったまま、完璧に踊っていた。
昨日と同じ振り付けなのに、
昨日とは少し違って見えた。
理由は、まだ分からない。
誰にも。
その夜。
麻衣は台帳を開いた。
少しだけ考える。
だが、途中でペンを止めた。
今日は、整理しきれないことが多かった。
書けたのは、一行だけだった。
「昨日の言葉は、まだ七人の中に残っている」
その下を、しばらく空ける。
それから、もう一行。
「でも——残ったまま、前へ進もうとしている」
麻衣はそこで手を止めた。
「進んでいる」
と言い切るには、まだ早い気がした。
台帳を閉じる。
電気を消す。
明日は、照明チェック。
ライブ前日。
ラベンダーパープルが、
本番の光の中でどう見えるのか。
まだ、誰にもわからなかった。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
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