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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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22/55

第22話 爆発

七月一日(水) 午後二時 リハーサルスタジオ




七月の横浜は、蒸していた。


梅雨明けの空は青かったが、外へ出ると空気が重かった。


スタジオの空調は冷気を送り続けていたが、七人の体温が、少しずつ部屋の温度を上げていた。




汗。


ワックス。


足音。


音楽。




ライブまで、三日だった。


午後に入って二時間。


今日は、全曲通しの日だった。




一曲目。


問題なし。


二曲目。


問題なし。


三曲目。




ここから、桃霞のパートが増える。


桃霞は——完璧だった。




音程。


リズム。


振り付け。


全部が正確だった。




莉恋は、鏡越しに桃霞を見る。


正しい。


正しすぎる。




四曲目。


五曲目。


桃霞は、一度も崩れなかった。


六曲目の途中。




「一度止めましょう」




振付師が言った。




「桃霞さん、Bメロの位置、少しだけ前です」




「わかりました」




音楽を戻す。


桃霞は、一回で修正した。


正確に。




「ありがとうございます。続けます」




音楽が再開する。




莉恋は踊りながら、桃霞を見た。


正しい。


全部、正しい。


でも——




(違う)




胸の奥で、何かが熱を持ち始めていた。




一年間。


莉恋は、このスタジオにいた。


失敗した日もあった。


音を外した夜もあった。


カラー変更を告げられて、一人で踊った日もあった。




「誰に向けるんだ」




鏡に向かって、そう言った夜も。


全部が、今の自分を作っていた。




チェリーピンクだった時間。


積み上げてきた時間。


それが、自分の“色”だった。




でも——




桃霞は、三週間でそこへ来た。




七曲目。


桃霞が笑う。


完璧なタイミングで。


完璧な角度で。


その笑顔を見た瞬間。




(届いてない)




莉恋の中で、何かが切れた。




「止めて」




音楽が止まった。


スタジオが静まる。




莉恋が前へ出た。


足音だけが響く。


桃霞の前で止まる。


距離、一メートル。




「桃霞さん」




「はい」




「今の笑顔——誰に向けてましたか」




桃霞は少し考えた。




「……客席前方へ」




「前方全体に?」




「はい」




莉恋は、桃霞を見る。


まっすぐに。




「それで、届くと思っていますか」




一秒。




「……届けようとしています」




「届けようとしてる」




莉恋が繰り返す。


小さく。


低く。




「私は、一年間ここにいました」




誰も動かなかった。




「失敗した日もありました。怖かった日もありました。カラーが変わるって言われて、自分が誰なのかわからなくなった日もありました」




声が、少しずつ熱を持つ。




「でも——積み上げてきた」




桃霞は、黙って聞いていた。




「あなたは、三週間で追いついてきた」




莉恋の喉が震える。




「技術なら——私より上かもしれない」




沈黙。




「でも」




声が、大きくなった。


抑えきれなかった。




「技術だけで、一万七千人の前に立つつもりですか」




空気が震えた。




向日葵が息を止める。




若葉のペンが止まる。




空が、目を閉じる。




杏は動かなかった。




苺は、一歩出かけて——止まった。




「届かない笑顔で、一万七千人の前に立たないでください」




莉恋の声が、スタジオに残った。




静寂。




桃霞は、莉恋を見ていた。


表情は変わらない。




だが。




右手の指先だけが、わずかに止まっていた。




一秒。


二秒。




「……わかりました」




その声は、いつもと少し違った。


莉恋は、その違いを聞いた。


聞いた瞬間。


熱が、一気に冷えた。




(私は、今——)




自分が何をしたのか。


遅れて理解した。




「……ごめんなさい」




莉恋が言った。


桃霞へ。


全員へ。




「言い過ぎました。ごめんなさい」




さっきとは別の声だった。


本当に、謝っていた。


莉恋は頭を下げる。


そのまま、スタジオの端へ戻った。




鏡を見る。


練習着。


乱れたツインテール。


今の自分。


わかっていた。


わかっていて——止められなかった。




振付師が、ようやく口を開く。




「……少し休憩しましょう」




全員が散る。


誰も、大きな声を出さなかった。




桃霞は、反対側の壁際に立っていた。


動かなかった。


ただ——何かを考えていた。




スタジオの中央だけが、空白みたいに空いていた。




休憩後。


再び音楽が流れる。


七人が位置につく。




誰も、さっきの話をしない。


でも。


空気は残っていた。




莉恋は踊りながら、桃霞を見る。


桃霞は、変わらず正確だった。




だが。


何かが、ほんの少しだけ違った。




前よりも。


わずかに。


“誰かへ向こうとしている”感じがした。




変わったわけじゃない。


でも。


触れた。


そんな感覚だけがあった。




(……三日後にわかる)




莉恋は踊り続けた。


自分の言葉が正しかったのかは、まだわからない。




でも。


言い方を間違えたことだけは、わかっていた。




リハーサル終了 午後六時 廊下


ドアが開く。


七人が廊下へ出る。


空気は重かった。




浅井麻衣は、壁際で待っていた。


照明確認の予定があった。


莉恋へ近づく。




「白石さん、少し——」




莉恋が麻衣を見る。


一秒。




「……ごめんなさい」




それだけ言った。


麻衣は、少し止まる。




「白石さん」




莉恋は答えない。


歩いていく。


足音は正確だった。


でも、少し速かった。


角を曲がって消える。




廊下に、「ごめんなさい」だけが残った。




麻衣は、苺を見つけた。


スタジオ入口。


タオルを首にかけたまま、ペットボトルを握っていた。


少し潰れていた。




「春日さん」




苺が振り返る。




「……今日、何かありましたか」




苺は、少し黙った。




「莉恋ちゃんが——爆発した」




「桃霞さんに?」




「うん」




麻衣は待つ。


苺は続けた。




「正しかったんです」




声が、少し揺れた。




「莉恋ちゃんの言ってること」




沈黙。




「でも——今日じゃなかったのかもしれない」




ペットボトルが、また少しへこむ。




「ずっと苦しかったと思う」




苺は、小さく笑った。




「見てたから」




「何をですか」




「桃霞ちゃんが、追いついてくるの」




麻衣は聞いていた。


苺は続ける。




「でも莉恋ちゃん、ちゃんと「ごめんなさい」って言った」




目元が、少し赤かった。




「……私、多分」




苺が息を吐く。




「莉恋ちゃんのこと、好きなんだと思います」




麻衣は頷いた。




「そう見えます」




苺が笑う。


少し泣きそうな顔で。




「今から会いに行きます」




「何を話しますか」




「何も話さないかもしれないです」




苺は言った。




「ただ、隣にいます」




麻衣は、その言葉を聞いた。


静かに。




「……春日さんらしいですね」




苺は、小さく笑った。




「麻衣さんと似てません?」




麻衣は答えなかった。


否定もしなかった。




苺は廊下を歩いていく。


莉恋のいる方へ。




麻衣は、一人残った。


その時。


スタジオの中から、音が聞こえた。




——いや。


音が、しなかった。




桃霞だった。


一人で踊っていた。


足音のない踊り。




麻衣は、その静けさを聞いていた。




タブレットを開く。


記録を書く。


最後。


一行だけ、残した。




「莉恋の言葉は、桃霞に届いた可能性あり」




少し考える。


そのあと、一文を追加した。




「変化は、まだ微細」




タブレットを閉じる。


蛍光灯が、廊下を均一に照らしていた。


影は、まだ薄かった。





つづく…





▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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