第21話 かもしれない
六月二十八日(土) 夕方 スタジオ廊下
今週の最後は、莉恋だった。
今日は、用件がなかった。
本当に、なかった。
スケジュール確認も。
衣装調整も。
SNS確認も。
ただ——廊下を歩いていた。
歩いていたら、莉恋がいた。
窓の前だった。
先週と同じ場所。
違うのは、天気だった。
今日は、雨が上がっていた。
曇り空の下、横浜の街が湿って見えた。
ビルのガラスが、鈍く光っていた。
莉恋が、先に気づいた。
「……また、たまたまですか」
「そうです」
「今週、三回目ですよね」
「……そうですね」
「確認係って、そんなに頻繁に通る仕事なんですか」
「ライブ前なので」
莉恋は少し間を置いた。
「便利な言葉ですね、それ」
「何がですか」
「“ライブ前なので”」
麻衣は少し考えた。
「……便利かもしれません」
莉恋は、小さく笑った。
笑った、というより——息が少し抜けた。
二人で窓の外を見た。
沈黙があった。
不自然ではなかった。
莉恋が先に口を開いた。
「……昨日の投稿、見ましたか」
「見ました」
「『新しいことが、始まっている気がします』」
「はい」
「……あれ、半分は意図して書きました」
「残り半分は」
莉恋は少し考えた。
「……出てしまった感じです」
「そうですか」
「浅井さんは、ああいう“出てしまった言葉”を、どう思うんですか」
麻衣は答えようとして——少し止まった。
どう思う。
簡単な質問ではなかった。
「……本音に近いことが多い、と思います」
言ってから、
少しだけ、違う気もした。
本音、という言葉は、
便利すぎることがある。
人は、そんなにはっきりしていない。
だが——今さら訂正もしなかった。
莉恋は窓の外を見たまま、頷いた。
「衣装合わせのときも、言いました」
「『悪くない、かもしれない』ですね」
「……聞こえてたんだ」
「はい」
莉恋は少し黙った。
「私、“かもしれない”って、あんまり使わないんです」
「杏さんも、似たことを言っていました」
莉恋が少し振り返った。
「杏が?」
「断定する人だ、と」
莉恋は、小さく息を吐いた。
「……そうかもしれない」
今度は、自分で“かもしれない”を使った。
そのことに、本人も気づいたらしかった。
少しだけ、笑った。
「増えてますね」
麻衣が言った。
「何がですか」
「“かもしれない”」
莉恋は少し考えた。
「……決めきれてないんだと思います」
「何を」
「ラベンダーパープルの自分を」
風が、窓を少し鳴らした。
廊下の蛍光灯が、白く反射していた。
「先週は、“まだいるか確認している”感じでした」
麻衣が言った。
「今週は?」
「……どう見えるか、確認している感じがします」
莉恋は少し止まった。
「杏に聞きましたか」
「はい」
「……あの子、本当に見てるんですね」
「見ています」
「浅井さんも」
麻衣は答えなかった。
代わりに、窓の外を見た。
莉恋が言った。
「監視されてる感じは、しないんです」
「以前も言っていましたね」
「はい」
「なぜだと思いますか」
莉恋は少し考えた。
「……答えを急がせないから、かもしれない」
「答えを」
「周りって、“どう思う?”って聞くじゃないですか。“大丈夫?”とか。“前向きになれそう?”とか」
「そうですね」
「でも浅井さん、“見る”だけだから」
麻衣は少し考えた。
そして——口を開きかけて、止まった。
“見るだけではない”。
本当は、
少し違ってきている。
見ているだけなら、
今週、こんなに廊下を歩いていない。
用件がない日に、
ここへ来たりしない。
だが——それを言葉にすると、
何かが変わる気がした。
だから言わなかった。
「確認係なので」
代わりに、そう言った。
莉恋は、その返答を聞いた。
少しだけ。
本当に少しだけ——不満そうだった。
「便利ですね、その言葉」
「便利かもしれません」
また、“かもしれない”を使った。
莉恋が、それに気づいた。
「……増えてますね」
「何がですか」
「“かもしれない”」
麻衣は少し黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「……影響されたのかもしれません」
莉恋が、笑った。
今度は、はっきり分かった。
「明後日、照明リハがあります」
「知っています」
「ラベンダーパープルの照明、初めて当たるんです」
「どんな感じがしそうですか」
莉恋は、すぐには答えなかった。
窓の外を見たまま、
指先だけが少し動いた。
「……怖いです」
先週は、出なかった言葉だった。
麻衣は、その言葉を聞いた。
聞いて——すぐには返せなかった。
“怖いということは、大事にしているということ”。
そう言いかけた。
だが、
本当にそう言い切っていいのか、
少し分からなくなった。
怖さには、
もっと別のものも混じる。
失う怖さ。
変わる怖さ。
期待される怖さ。
それでも——
「……大事だから、怖いのかもしれません」
と言った。
莉恋は、麻衣を見た。
「“かもしれない”ですね」
「断定できないので」
「珍しいですね、浅井さんが」
「……そうかもしれません」
莉恋が、また笑った。
笑ってから、窓の外を見た。
「衣装を着てから、実感が増えました」
「ラベンダーパープルの」
「はい。前は、情報だったんです。でも今は——少し、現実になってきた」
「現実になると、怖くなる」
「そうかもしれません」
また、お互いに“かもしれない”を使った。
廊下に沈黙が落ちた。
遠くで、スタッフの話し声が聞こえた。
機材の車輪の音も。
ライブが近づいていた。
音で分かった。
莉恋が言った。
「……来週も、来ますか」
「来ます」
「業務で?」
麻衣は少し考えた。
「……たぶん、それだけじゃないです」
言ってから、
少しだけ驚いた。
自分で、先に言葉にした。
莉恋も、少し止まっていた。
「確認係なのに」
「確認係ですが」
「仕事、超えてきてませんか」
麻衣は少し考えた。
否定しようとして——できなかった。
「……そうかもしれません」
莉恋は、しばらく麻衣を見ていた。
それから、
小さく頷いた。
「じゃあ、来週も来てください」
「行きます」
「たまたまでも」
「たまたまでも」
莉恋が歩き出した。
足音が、廊下に響いた。
一定だった。
だが——先週より、少しだけ柔らかいリズムに聞こえた。
麻衣は、その背中を見送った。
タブレットを開いた。
入力しようとして——少し止まった。
いつものように、
整理された文章を書こうとした。
だが、
今日は少し難しかった。
数秒考えてから、書いた。
「莉恋。“怖い”という言葉が出た。ラベンダーパープルが、情報ではなく現実になり始めている可能性。“かもしれない”が増えている。——私も。」
入力してから、
麻衣は少しだけ画面を見ていた。
消さなかった。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




