第20話 確認事項ではなかった
六月十六日(月) 朝
朝の会議が終わった後、藤原係長が言った。
「浅井、ちょっと来い」
呼ばれたのは、全員が席に戻った後だった。
係長のデスク前。
そこに立った時点で、通常業務ではないと分かった。
係長は、書類を閉じた。
「追加の指示がある」
「はい」
「メンバー側の進行確認も、お前が見ろ」
「進行確認、というのは」
「本番まで3週間を切った。体調管理、リハ導線、衣装合わせ、会場入りの時間——全部だ。スタジオに出入りして、問題があれば報告しろ」
「それは——メンタルケアと、どう違うんですか」
係長は少し考えた。
「違わない」
即答だった。
「だが、“メンタルケア”とは言うな」
「……なぜですか」
「その言葉を使った瞬間、相手が構える」
係長は、デスクの端を指で軽く叩いた。
「進行確認なら、自然に隣へ立てる」
麻衣は、その言葉を頭の中で整理した。
「……“自然に隣へ立つため”の役職、ということですか」
「そうだ」
「口実を作る」
「そういうことだ」
係長は、そこで少し視線を上げた。
「特に——莉恋を見ろ」
声が、少しだけ低くなる。
「はい」
「崩れる直前の人間は、“大丈夫です”って言う」
麻衣は係長を見た。
「わかるんですか」
「長く会社員やってりゃな」
係長は、それ以上説明しなかった。
「動け。考えるのは歩きながらでいい」
「……わかりました」
麻衣が離れようとした時、係長が最後に言った。
「あと浅井」
「はい」
「“見るだけ”で終わるなよ」
一秒。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
係長は、もう書類に目を戻していた。
六月十六日(月) 午後 スタジオ前廊下
最初に接触したのは、莉恋だった。
理由は、担当カラー変更に伴うペンライト色確認。
業務として成立している。
だから、不自然ではない。
麻衣は三時十五分、スタジオ前の廊下に立った。
リハ終了時刻の五分前だった。
時間を合わせたのは偶然ではない。
三時二十分。
ドアが開く。
向日葵。
若葉。
空。
杏。
苺。
莉恋。
桃霞はまだ出てこない。
莉恋が汗を拭きながら廊下へ出た瞬間、麻衣と目が合った。
一秒。
莉恋が言う。
「……浅井さん」
「お疲れ様です。少しよろしいですか」
「何ですか」
「ペンライトの色確認です。本番用の最終調整を」
莉恋は少しだけ視線を落とした。
「……今ですか」
「五分程度です」
「わかりました」
他メンバーが散っていく。
苺だけが、一瞬振り返った。
麻衣と莉恋を見た。
何も言わない。
だが——見ていた。
そのあと、歩き去った。
廊下に二人が残る。
麻衣はタブレットを開いた。
三種類のラベンダーパープル。
莉恋が近づく。
数秒、画面を見る。
「……左は青が強い」
「どの程度ですか」
「もっと白寄りがいいです。真ん中より、少し右」
「中間値を作ります」
麻衣がメモを取る。
莉恋は、まだ画面を見ていた。
「……会場で見たら、また違うかもしれませんね」
小さい声だった。
麻衣は、その“音量”を聞いた。
ペンライトの話をしている声ではなかった。
「会場で見たら」
それは、色の話ではない。
麻衣は理解した。
だが、言語化しなかった。
「会場リハで、再調整します」
「……わかりました」
会話が終わく。
莉恋が歩き出す。
数歩進いたあと、不意に止まった。
振り返らないまま言う。
「……浅井さん」
「はい」
「確認って、終わりあるんですか」
麻衣は少し考えた。
「内容によると思います」
「……そうですか」
莉恋は、そのまま去っていった。
麻衣はタブレットを開く。
「色確認完了。“会場で見たら違うかもしれない”——発言あり」
そこまで入力して、指が止まる。
続けて打つ。
「“確認の終わり”を気にしている可能性」
入力後、一秒見た。
保存した。
六月十七日(火) 午後
向日葵との接触理由は、スケジュール重複確認だった。
衣装合わせとボイストレーニング。
同時刻。
業務として自然だった。
「橘さん、少し確認いいですか」
「はい!」
明るい声。
速い。
「来週火曜、衣装合わせとボイトレが重複しています」
「あ、ほんとだ」
「どちらを優先しますか」
「ボイトレでお願いします! 先生の時間固定なので」
「分かりました」
麻衣はメモする。
「何か気になることはありますか」
「ないです! 全然大丈夫です!」
——速い。
麻衣は、その速度を聞く。
「睡眠は」
「取ってます!」
「食事は」
「してます!」
「水分は」
向日葵が笑う。
「麻衣さん、お母さんみたい」
「確認なので」
「大丈夫ですよ、本当に」
笑顔。
声量。
姿勢。
全部、明るい。
だが——
ペットボトルを握る左手だけが強い。
少し潰れている。
麻衣は、その変形を見た。
向日葵が歩き出す。
途中で振り返る。
「でも!」
「はい」
「莉恋ちゃん、大丈夫ですよ」
即答だった。
信じ切っている声。
麻衣は少しだけ意外だった。
「根拠はありますか」
「あります!」
向日葵は笑う。
「莉恋ちゃん、絶対ステージ降りないから!」
言い切った。
その言葉だけが、妙に強かった。
麻衣は、その強さを記録した。
六月十八日(水) 午後
空は、窓の前にいた。
外を見ていた。
「水瀬さん」
空が振り返る。
「……何ですか」
「暗転タイミングの確認です」
会話は短かった。
三拍後。
本番は少し速くなる。
音消え基準。
必要な情報は、すぐ出る。
だが途中で、空が言った。
「……桃霞さんの足音」
麻衣は視線を上げる。
「足音がないことで、演出が変わります」
「聞こえるんですか」
「気づかない人は気づかないです。でも、体は感じる」
麻衣は、その表現を反復した。
「……“体は感じる”」
空は頷く。
「違和感って、音になる前に届くので」
沈黙。
そのあと、空が不意に言った。
「麻衣さんは」
「はい」
「記録すると、安心するタイプですか」
麻衣は少し止まった。
予想外の問いだった。
「……なぜそう思いましたか」
「見落としたくない人の動き方だから」
空は静かに言った。
「何かを失くす前に、形にして残してる」
麻衣は答えなかった。
答えられなかった。
空は、それ以上聞かなかった。
窓の外へ視線を戻す。
会話終了の合図だった。
六月十九日(木) 午後
若葉との接触はSNS確認。
若葉は、スマホを見ていた。
「霧島さん、少し」
「はい」
「告知後の反応について確認したいです」
若葉は、すぐ画面を見せた。
「“まだ言えない何か”が最多です」
「はい」
「あと、“ラベンダーパープルが似合うか不安”という投稿が継続しています」
「減っていますか」
「減少傾向。ただ、消えてない」
若葉は淡々としている。
感情を乗せない。
だが、その静けさが逆に情報量を増やしていた。
「莉恋さんは見ていますか」
「見てると思います」
「なぜ」
「確認する人だから」
若葉は即答した。
「……何を」
「自分が、まだ必要とされてるか」
麻衣は、その言葉を記録した。
若葉が、麻衣を見る。
「麻衣さんは、解決しないんですね」
「……はい」
「気づくだけ」
「今は」
若葉は少し考えた。
「それ、危ないですよ」
「何がですか」
「見続ける側って、途中で境界なくなるので」
麻衣は、その言葉を聞いた。
返答はしなかった。
だが——記録には残らなかった。
残せなかった。
六月二十一日(土) 夕方
最後に残ったのは、莉恋だった。
窓の前。
横浜の夕方。
薄い光。
麻衣が近づく。
「……浅井さん、また来たんですか」
「たまたまです」
今回は、本当にそうだった。
「今日は何の確認ですか」
「今日は——ありません」
莉恋が少し笑う。
「確認係なのに」
「確認事項がないことを確認する日もあります」
「変な仕事」
「そうかもしれません」
並んで窓を見る。
沈黙。
そのあと麻衣が言った。
「杏さんから聞きました」
「……何を」
「鏡を見る回数が増えた、と」
莉恋は固まった。
崩れはしない。
だが、一瞬止まった。
「……あの子、何でも見てる」
「そうみたいですね」
莉恋は窓の外を見る。
「……確認してるんです」
「何を」
「チェリーピンクの私が、まだ残ってるか」
声に、色があった。
麻衣は思った。
今日は、昨日より色が濃い。
「……まだいますか」
莉恋は少し考える。
長かった。
「……昨日はいました」
沈黙。
「今日は、まだ確認中」
麻衣は、その言葉を受け取る。
「ライブは来ますね」
「来ます」
「重いまま立つことになるかもしれない」
「なると思います」
「それでも立ちますか」
莉恋は即答した。
「立ちます」
短い。
揺れない。
麻衣は、その強さを見た。
そして初めて、自分から言った。
「……気になります」.
莉恋が、麻衣を見る。
「何がですか」
「そのまま、どこまで立てるのか」
沈黙。
麻衣自身、自分が何を言ったのか、少し遅れて理解した。
“確認”ではなかった。
観察でもなかった。
莉恋が、少しだけ目を細める。
「……浅井さん」
「はい」
「それ、仕事ですか」
麻衣は答えなかった。
答えられなかった。
窓の外では、梅雨の雲が光を薄くしていた。
しばらくして、麻衣が言う。
「また来ます」
「業務で?」
一秒。
「……気になるので」
莉恋の口元が、わずかに動いた。
今度は、はっきり分かった。
笑ったのだった。
「……そうですか」
その夜。
麻衣は台帳を開いた。
六月十六日〜二十一日。
全員分の記録を書く。
莉恋。
向日葵。
若葉。
空。
杏。
桃霞。
書き終える。
最後の一行を書こうとして、止まった。
いつものように、
「要観察」
と書こうとして——指が止まる。
代わりに、別の言葉を書く。
「確認を続ける。」
書いたあと、一秒見た。
何を確認するのかは、書かなかった。
書けなかった。
タブレットを閉じる。
だが閉じたあとも、
莉恋の「また来ますか」が残っていた。
それはもう、
確認事項ではなかった。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
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