第19話 見ておく価値
六月六日(金) 午前十時三十二分 リハーサルスタジオ
リハーサルが、止まった。
止めたのは、振付師ではなかった。
苺だった。
「ちょっと待って」
音楽が止まる。
七人が、それぞれの位置で静止した。
苺は、スマートフォンを持っていた。
リハーサル中、スマートフォンは持ち込まない。
それが、ゆめいろシフォンの暗黙のルールだった。
だが今日は——スタジオ入口に来たスタッフが、藤原からの連絡を伝えた。
苺は、その画面を見たまま言った。
「……完売したって」
声が、少しだけ違った。
「十時二十七分、全部」
沈黙。
誰も、すぐには反応しなかった。
一万七千席。
二十七分。
その数字だけが、スタジオの中央に置かれたみたいだった。
苺は、ゆっくり息を吐いた。
「二十七分か」
口に出した瞬間、その数字の重さが変わった。
去年の最初のライブ。
八百人。
完売まで、三日。
その次は千五百。
翌日完売。
三千人のときは、空席があった。
そして今。
一万七千人。
二十七分。
どこまで来たのか、苺は測ろうとした。
途中でやめた。
測れる距離じゃなかった。
ただ——
嬉しかった。
それだけは、はっきりしていた。
一年間、一緒にやってきた六人。
途中から入ってきた、一人。
その全部に対して、
「ここまで来た」
という答えが返ってきた気がした。
苺は、スマートフォンをスタッフへ返した。
全員を見る。
「……もう一回、やろう」
感動を共有するみたいな言い方は、しなかった。
その代わりに——前へ進もうとした。
それが、今の苺の言葉だった。
振付師が、無言で音楽を流す。
向日葵は、踊りながら思った。
(二十七分で、一万七千人)
うまく実感できない。
でも。
今日は、体が軽かった。
ターンをしながら、向日葵は少しだけ笑った。
自然に出た笑顔だった。
(来てくれる人が、いる)
その事実が、体を軽くしていた。
若葉は、頭の中で数字を整理していた。
一般販売分、一万二千七百席。
二十七分。
異常値だった。
前例がない。
つまり——ここまで来た、ということだ。
若葉は感情を言葉にするのが苦手だった。
だが今日は、田中にLINEを送っていた。
「見ておく価値があります」
送ったあとで気づいた。
あれは、情報整理じゃなかった。
感じたことだった。
若葉は踊りながら思う。
たぶん、自分は。
田中だけじゃなく——
ここにいる七人全員に向けて、あの言葉を思っていた。
空は、踊りながら目を閉じかけた。
(二十七分)
その数字が、音みたいに聞こえた気がした。
一万七千人が、
スマートフォンを見て、
「取れた」と思って、
「取れなかった」と思って、
その全部の熱が、七月四日に集まる。
空には、それが“音”として聞こえた。
ライブが始まる直前。
会場全体が息を吸う、あの瞬間の音に似ていた。
まだ始まっていない。
でも——もう始まりかけていた。
杏は、鏡越しに莉恋を見た。
踊っている。
正確に。
だが今日は、鏡への視線が少し違った。
いつもの莉恋は、“確認”していた。
今日の莉恋は、“見て”いた。
自分を。
何があるのかを。
(……変わっている)
杏は、それだけを確認した。
言葉にはしなかった。
莉恋は、踊りながら鏡を見ていた。
(一万七千人が、来る)
チェリーピンクの自分を知っているファンが、
ラベンダーパープルの自分を、初めて見る。
怖さは、まだあった。
完全には消えていない。
でも。
(……怖くない、わけじゃない)
そこまで考えて、
莉恋は、小さく息を吐いた。
違った。
怖い。
ちゃんと、怖い。
でも今日は——
その隣に、別の感情があった。
楽しみ。
その言葉が、初めて同じ場所に並んでいた。
怖い。
でも、見てほしい。
その二つが、今日は一緒にあった。
莉恋は、鏡の中の自分を見る。
確認ではなく。
ちゃんと、見る。
七月四日、自分がどう立つのかを。
桃霞は、数字を処理しようとした。
一万七千席。
二十七分。
数字として整理する。
だが。
処理しきれないものが、残った。
(一万七千人が、来る)
その事実だけが、
数字として処理できなかった。
オーディションの最終審査は、十人の候補者と五人の審査員。
だが七月四日は違う。
一万七千人。
その前で——
笑顔を届ける。
乱入者を制圧する。
同時に。
「笑顔を保てるか」
まだ、答えは出ていなかった。
七割。
そこまでは確認できている。
残り三割が、まだ分からない。
だが。
(届けようとする相手が、来る)
その事実だけは、今日、確定した。
桃霞は踊りながら、
胸の奥の“うずき”を確認した。
前より、少し強かった。
一度目の通しが終わった。
音楽が止まる。
呼吸音だけが残った。
振付師が言う。
「……良かったと思います」
誰も、すぐには動かなかった。
まだ、二十七分の残響の中にいた。
最初に口を開いたのは、苺だった。
「一個だけ聞いていい?」
向日葵がタオルを首にかけたまま振り向く。
「なに?」
「今日の二十七分。どう思った?」
向日葵は少し考えて、
「……わかんない。でも、体が軽い」
そう言って笑った。
苺も、少し笑う。
「若葉さんは?」
「……異常値でした」
「感情は?」
若葉は少し黙った。
「……見ておく価値がある、と思いました」
「何を?」
若葉は、七人を見た。
「……今の、この七人を」
沈黙。
だが、その沈黙は悪くなかった。
「空さんは?」
「音がしました」
「どんな?」
空は少し考えた。
「……始まる前の音」
苺は頷いた。
「杏は?」
「匂いが変わった」
「何の?」
「覚悟」
短かった。
でも、それで十分伝わった。
苺は莉恋を見た。
「莉恋ちゃんは?」
莉恋は、鏡を見たまま言った。
「……今日、初めて」
少し間を置く。
「怖いことと、楽しみなことが——同じ場所にありました」
静かになった。
苺は、莉恋を見る。
「……そっか」
莉恋は、小さく頷いた。
苺は最後に、桃霞を見た。
「桃霞ちゃんは?」
桃霞は少し考えた。
「……届ける相手が、来るとわかりました」
「どう感じた?」
桃霞は、少しだけ迷った。
「……うずきました」
その言葉に、莉恋の視線が動いた。
桃霞は続ける。
「前より、強く」
沈黙。
だが今度の沈黙は——前へ向いていた。
苺が言った。
「もう一回やろう」
全員を見る。
「今日の二十七分を——もらったんだから」
「もらった」と桃霞が繰り返す。
「一万七千人が、二十七分で動いてくれた」
苺は言った。
「それって——私たちに熱をくれたってことだと思う」
桃霞は少し考えた。
「……応える、ということですか」
「うん」
「どうやって」
苺は、少し笑った。
「それは——自分で見つけて」
その瞬間。
莉恋の目が、わずかに細くなった。
(……同じ言葉)
前に、自分も桃霞へ言った。
「自分で見つけて」
でも。
苺の言葉は、突き放していなかった。
そこには、
「あなたなら見つけられる」
という確信があった。
莉恋は、桃霞を見る。
桃霞は、その言葉を受け取っていた。
「……わかりました」
いつもの「わかりました」と、少し違った。
ちゃんと、受け取っている声だった。
莉恋は、それを見ていた。
そして——少し思った。
七月四日。
この七人で、立つ。
そのことが。
今日初めて、
怖いだけじゃなくなっていた。
音楽が流れた。
七人が動き始める。
一万七千人の前へ向かう、踊り。
足音が響く。
六人分の音と——
一人分の、音のなさ。
蛍光灯の白い光の中。
鏡が、七人を映していた。
それぞれの重さを持ったまま。
それぞれの怖さを抱えたまま。
それでも——
前へ進み続ける、七人を。
二十七分で集まった、一万七千人の熱へ向かって。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




