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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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18/55

第18話 二十七分、完売。

六月六日(金) 朝七時五十三分




チケット販売開始は、午前十時だった。




浅井麻衣は、いつもより早くビルに着いた。


今日の服装は、ネイビーのジャケットに白のシャツ、グレーのスラックス。


「本番前」の格好だった。


今日で何度目か——もう数えていない。




エレベーターで四階に上がる。


ドアが開く前から、空気が違った。


静かだった。


だが——張っていた。




四階のフロアに入る。




田中が、すでにいた。


濃紺のシャツ。


ジーンズ。


白のスニーカー。


いつも通りだった。




だが——デスクの上が違う。


ノートパソコンが二台。


タブレット。


スマートフォン二台。


モバイルバッテリー。


開封済みのブラックコーヒーが三本。




「おはようございます」




「おはようございます」




田中は画面を見たまま返した。




「早いですね」




「田中くんの方が早いです」




「今日は——普通の朝じゃないので」




麻衣は、少しだけ画面を見た。




アクセス監視ツール。


待機列管理画面。


SNS分析ページ。


全部が開かれていた。




「準備は終わっていますか」




「昨夜の時点で全部確認しました。システム側とも接続済みです。一般販売は十時開始。残席は一万二千七百」


「ファンクラブ先行は、四千三百席。一時間以内に完売。倍率は十二倍」




麻衣は、止まった。




「十二倍」




「ゆめいろシフォンの過去最高は四倍です」




「その三倍」




田中は画面をスクロールした。




「原因は明確です。「まだ言えない何か」」




麻衣は、その言葉を頭の中で反復した。


まだ言えない。




内容を伏せたまま、期待だけが膨らんでいる。


普通なら、危険なやり方だった。


だが今回は——成功していた。




中村先輩が入ってきた。


ダークグレーのジャケット。


白のカットソー。


黒のパンツ。


いつも通りの格好。




だが——歩く速度が少し速かった。




「おはようございます」




「おはようございます」




「若葉ちゃんから、昨日連絡が来たの」




「若葉さんから?」




「SNSの空気が変わったって」




田中が画面を切り替える。




「原因になった投稿があります」




表示されたのは、音楽ライターの個人アカウントだった。


フォロワー七万人。


ライブレビューで有名な人間。


投稿には、こう書かれていた。




「ゆめいろシフォン横浜アリーナ公演について、複数の関係者から話を聞いた。内容は言えない。ただ、“見たことのないもの”という表現だけは全員一致していた。もし迷っているなら、今回だけは行った方がいいかもしれない」




麻衣は読んだ。




「……強いですね」




「投稿から六時間で四万リポストです」




「反応は」




「「楽しみ」が減って、「見逃したらまずい」が急増しています」




麻衣は、その変化を考えた。




「楽しみ」は、余裕がある。


「見逃したらまずい」は——今すぐ動く。


感情の種類が違う。




「九条さんが仕込んだ可能性は」




田中と中村先輩が、一瞬だけ視線を合わせた。




「……否定はできません」




「でも確認する必要はないです」




麻衣が言った。




「本物でも仕込みでも、今日起きることは変わりません」




田中が、少しだけ笑った。




「正確ですね」




係長が入ってきた。


濃紺のスーツ。


黒のネクタイ。


靴だけが、不自然なほど磨かれていた。




「おはようございます」




全員が返した。




「昨日からのSNS状況は把握しているな」




「はい」




「販売開始後、リアルタイム確認を強化しろ。今日は通常対応じゃない」




「わかりました」




係長は少し止まり、言った。




「今日、何が起きるか——覚えておけ」




それだけだった。




午前九時 販売開始一時間前


待機人数が、増え続けていた。


田中が画面を見ている。




「……えっ、マジですか」




「どうしました」




「まだ販売開始一時間前です」




「はい」




「待機人数が、通常ライブの二十倍を超えています」




「何人ですか」




田中は、数字を確認した。


そして——止まった。




「……十八万人です」




麻衣は、聞き返さなかった。


数字の意味を、一度で処理できなかったから。




横浜アリーナ。


一万七千席。


そのチケットに——十八万人。




「システムチームには」




「昨夜から連絡済みです。ただ、この数は想定外だと思います」




中村先輩が電話をかけた。




「再確認してもらっています」




麻衣は、自分のスマートフォンでSNSを見た。


一般ユーザーの投稿が流れていた。




「え、待機列もう入れないんだけど」


「アイドルのチケットで、こんなことある?」


「なんか怖い」


「ライブっていうか、事件の前みたい」




事件。




麻衣は、その単語に少しだけ引っかかった。


だが——否定はできなかった。


空気が、普通ではなかった。




午前九時五十分


若葉から、田中にLINEが来た。




「現時点で『ゆめいろシフォン』『横浜アリーナ』『まだ言えない何か』が同時トレンド入り。販売開始前としては異常値。記録推奨」




「若葉さんらしいですね」


「記録推奨、って書き方が」




「感想じゃなくて観測なんですね」




田中が、小さく笑った。




「でも——今日は、その若葉さんも少し変です」




「どういう意味ですか」




「さっき、追加で来ました」




画面を見せる。




「正直、少し怖い」




短い一文だった。


だが——若葉が「怖い」と送るのは珍しかった。




麻衣は、その言葉を見た。




怖い。




期待ではなく。


興奮でもなく。


熱狂が、大きくなりすぎることへの感覚。




「……でも」




麻衣が言った。




「若葉さんは、逃げていません」




「はい」




「観測し続けている」




「それが若葉さんですね」




午前十時ちょうど 販売開始




「……始まりました」




田中の声が、小さく落ちた。




管理画面が更新される。


残席。


一万二千七百。


アクセス数。


急上昇。




「……来た」




一分後。


残席表示は変わらない。


だが——




「処理待ちです」




田中が言った。




「購入処理が多すぎて、反映が追いついていない」




二分後。


更新。


一万一千三百。


空気が、変わった。




「……千四百席」




「二分です」




「一分七百」




「このままなら——十八分」




麻衣は、画面を見た。




だが。


直後。


再更新。


九千八百。




「……増えています」




「SNSです」




田中が画面を切り替えた。




「取れた!!!!」


「決済通った!!」


「横アリ行ける!!!!」




「取れた人間が、取れていない人間を急がせています」




連鎖だった。




「今すぐ動かないと終わる」




その感覚が、画面越しに広がっていく。




午前十時十五分


残席——四千九百。


係長が、低く言った。




「……速すぎる」




田中は更新を続けていた。


手動で。


何度も。




「現在アクセス、設計上限の八割を超えました」




「落ちる可能性は」




「ゼロじゃありません」




中村先輩が電話を持ったまま言う。




「システムチーム、緊急監視体制に移行しています」




麻衣は、SNSを見ていた。


そこには、ライブへの期待だけではないものが流れていた。




「何が起きるんだよこのライブ」


「取れなかったら一生後悔する気がする」


「まだ内容わからないのに怖いくらい売れてる」


「“乱入制圧”って噂、本当なの?」




噂。




まだ公式発表はない。


なのに——もう広がり始めている。




麻衣は思った。


情報ではなく、熱が伝播している。




午前十時二十三分


残席——九百。




田中の手が、少し震えていた。




「……田中くん」




「はい」




「大丈夫ですか」




「……わかりません」




画面を見たまま言う。




「数字を見ているだけなのに、体の方が先に反応しています」




「何を感じていますか」




田中は、少し黙った。




「……現象です」




「現象」




「人気とかじゃない。もっと、止まらない感じです」




麻衣は、その言葉を聞いた。


止まらない。


それは——期待より、少し怖かった。




午前十時二十七分


残席が——ゼロになった。


画面に表示される。


SOLD OUT。




誰も、すぐには喋らなかった。




五秒。


十秒。




田中が、画面を見たまま言った。




「……終わりました」




「二十七分」




「はい」




「一万七千席」




「二十七分で」




麻衣は、息を吐いた。




田中は動かなかった。


そして、静かに言った。




「……俺、取れませんでした」




麻衣が、見る。




「ファンとして、取りたかったんです」




「関係者席は」




「あります。でも——違うんです」




田中は、少し笑った。




「客席で見たかった。桃霞ちゃんが、一万七千人の前で笑おうとする瞬間を」




麻衣は、その言葉を聞いた。




乱入制圧ではなかった。


格闘でもない。


田中が見たかったのは——笑顔だった。




その時。


田中のスマートフォンが震えた。


若葉からだった。




「完売確認。10:27。記録完了」




その下に、もう一行。




「乱入制圧より、最後の笑顔の方が残る気がしています」




麻衣は、その文章を見た。


そして思った。




ああ。


このライブの中心は——そこなんだ。




格闘ではない。


乱入でもない。




一万七千人が見ようとしているのは、




「まだ笑い方を知らないアイドルが、笑おうとする瞬間」だ。




午後三時


係長が、全員を集めた。




「九条さんからコメントが来た」




全員が見る。


係長は言った。




「『予定通りです』」




沈黙。




二十七分完売。


十八万人待機。


トレンド独占。


それを——予定通りと言った。




田中が、小さく呟いた。




「……どこまで見えてるんだ、あの人」




誰も答えなかった。





その夜


麻衣は、台帳を開いた。




「六月六日。一般販売分12,700席、二十七分で完売。10:27、横浜アリーナ全席完売」




書く。


続けて。




「『予定通りです』——九条冴子」




「『乱入制圧より、最後の笑顔の方が残る気がしています』——霧島若葉」




「『これは現象だと思う』——田中聡」




三人の言葉を並べる。


最後に。


麻衣は、自分の言葉を書いた。




「今日、何が起きていたのか、まだ整理できない。」


「だが、一つだけ分かる。」


「二十七分で動いた一万七千人は、“ライブ”を買ったのではない。」


「『目撃しなければならない瞬間』を買っていた。」




ペンを置く。


台帳を閉じる。


電気を消す。




もうすぐ。


横浜アリーナ。


一万七千人が集まる。




「見逃したらまずい」と思った人たちが。




そのステージに——


まだ笑い方を知らないセンターが立つ。




桃霞が。


立つ。





六月六日(金) 深夜一時十二分




部屋は、暗かった。


照明は点けていない。


横浜の夜景だけが、床に薄く光を落としていた。




九条冴子は、ソファに深く座っていた。


黒のスラックス。


白いシャツ。


ジャケットは脱いでいる。




ローテーブルの上に、ブランデーの瓶。


グラスは、もう半分以上空いていた。


氷は入っていない。




冴子は、グラスを口元へ運ぶ。


喉を通る。


熱が落ちる。




いつもより、速かった。


グラスを置く。


琥珀色が、わずかに揺れた。




静かな部屋だった。


時計の音もない。




冴子は、瓶を取った。


空いたグラスへ、再び注ぐ。


細い音。




その瞬間。




「もうやめておけ」




低い声だった。


冴子の手が、止まる。




男が立っていた。


窓際。


暗がりの中にいた。




背が高い。


黒いシャツ。


袖を少し捲っている。




年齢は四十代後半ほど。


だが、姿勢が崩れていない。




冴子は、グラスを持ったまま言った。




「帰っていなかったの」




「お前が、珍しく酒を開けた」




男は窓際から動かなかった。




「気になった」




冴子は、少しだけ笑った。


笑った、というより——口元が動いただけだった。




「二十七分だった」




男は黙った。


冴子は、グラスを見たまま続けた。




「想定より、三分早い」




「十分誤差だ」




「誤差じゃない」




即答だった。




「三分で、人は熱狂する」




沈黙。




男は、冴子を見ていた。


冴子は続けた。




「会場の空気も。


SNSの速度も。


期待の膨張も。


——全部、想定より速い」




男は、ゆっくりソファの方へ歩いた。


足音が、ほとんどしない。




冴子の向かいに立つ。


テーブルの上のグラスを見る。




「お前が怖がるのは、珍しいな」




冴子は、否定しなかった。


代わりに、グラスを揺らした。


琥珀色が揺れる。




「怖くない賭けに、価値はない」




男は、小さく息を吐いた。


それが笑ったのかどうか、分からなかった。




「昔から変わらないな」




「変わったわ」




「どこが」




冴子は、少し黙った。


窓の外を見る。




横浜の光。


無数の窓。


無数の生活。




そのどこにも、自分はいないような顔で。




「……あの子を、ステージに立たせる」




男は、何も言わない。


冴子は続けた。




「笑えないままの子を。一万七千人の前に」




静かな声だった。


感情を抑えている声ではない。


感情が、深く沈んでいる声だった。




男は、テーブルのブランデー瓶を見た。




「だから飲んでいるのか」




「違う」




冴子は即答した。




「成功したからよ」




「二十七分完売がか」




「そう」




冴子は、そこで初めて男を見た。




「成功したから——もう、止まれない」




沈黙。




男は、その視線を受け止めた。


逃げない。




冴子も、逸らさない。




長い沈黙だった。




冴子は、グラスを口元へ運ぼうとする。




その手を。


男が、静かに止めた。




強くではない。


自然に。


取り上げるように。




冴子は、抵抗しなかった。




男が、グラスをテーブルへ戻す。


小さな音。




「今日はもう終わりだ」




冴子は、ソファに深く背を預けた。


天井を見る。


暗い天井。




「……まだ始まっただけよ」




男は答えない。


窓際へ戻る。




その横顔が、一瞬だけ——桃霞に似ていた。




目元。


静かな視線。


感情を外へ出さないところ。




冴子は、それを見た。


そして、小さく目を閉じた。




六月六日。


一万七千席完売。


二十七分。


現象は、始まった。




そして今。




誰よりそれを理解している女だけが——


薄暗い部屋で、


酒を飲めなくなっていた。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

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