第17話 格闘アイドル、始動
六月五日(木)午後二時
会議室B
招集は、テキストメッセージ一行だった。
「明日、十四時。会議室B。全員」
理由は、書かれていなかった。
九条冴子からの連絡に、理由が添えられることはない。
翌日。
全員が、時間通りに揃った。
会議室は、スタジオより狭い。
縦七メートル、横四メートル。天井は低く、蛍光灯が二列に並んでいる。
白い光が、部屋のすべてを均等に照らす。
影ができない。
桃霞は、いつも通り音を立てずに座った。
姿勢は垂直。
膝の角度、九十度。
苺が隣に座る。
向日葵がその隣。
空、若葉、杏、莉恋。
七人。
誰も口を開かない。
十四時、ちょうど。
ドアが開いた。
九条冴子が入る。
書類は持っていない。
タブレットも。
メモも。
何も持たずに、上座へ立った。
座らない。
それだけで——空気が変わった。
七対一。
だが、圧は逆だった。
九条は、全員を一度だけ見た。
左から右へ。
止まらずに。
測るように。
そして、口を開いた。
「ゆめいろシフォンは、路線を変えます」
前置きは、なかった。
「格闘アイドル」
短い六文字が、室内に落ちた。
誰も動かない。
九条は続ける。
「前にも言ったが、現在国内に女性アイドルグループは三百を超える。歌がうまいグループ、ダンスが揃うグループ、コンセプトで差別化したグループ。市場は、すでに飽和している」
一拍。
「観客は、“本物”にしか反応しない」
静かな声だった。
だが——断定だった。
「笑顔。努力。絆。青春。アイドルが提示してきた感情は、すでに消費され尽くしている」
向日葵が、少し眉を動かした。
九条は続ける。
「脳が、飽和している」
室内が静まる。
「だから——まだ誰も見たことがないものを見せる」
一拍。
「その中で、格闘ができるグループは——存在しない」
若葉が、静かにメモ帳を開いた。
紙の擦れる音だけが、響く。
「ゆめいろシフォンは、今後のライブに実戦要素を組み込みます」
「ステージへの乱入者を、パフォーマンス中にメンバーが制圧する」
「それを、演出として成立させる」
沈黙。
今度は——冷たい沈黙だった。
若葉が口を開く。
「確認ですが」
「どうぞ」
「乱入者は、事前に手配された人員ですか」
「そうです」
「観客への事前告知は」
「しない」
若葉のペンが止まった。
「……誤認通報の可能性があります。警察対応、あるいは模倣犯発生のリスクも」
「あります」
九条は、即答した。
「リアリティには、危険が伴う。だから価値になる」
向日葵が、小さく息を呑んだ。
苺は、九条を見ていた。
まばたきが、一度だけ遅れた。
九条は続ける。
「センターは、櫻井桃霞」
初めて、視線が定まった。
桃霞を見る。
桃霞は返さない。
表情も、姿勢も、変わらない。
「格闘担当も、彼女が務めます」
空気が、変わった。
今度は、別の種類の変化だった。
苺が、ごく自然に桃霞を見る。
「……桃霞ちゃん、格闘できるの?」
会議を止める声ではなかった。
確認せずにいられない声だった。
桃霞は、苺を見た。
「はい」
短い返答。
苺は、一秒だけその答えを見る。
何かを言いかけて——九条へ視線を戻した。
向日葵が、今度ははっきり身を乗り出した。
「待って、本当に? 本当に戦えるの?」
「はい」
「どのくらい……?」
「実戦における制圧であれば、支障はありません」
向日葵は、桃霞の顔を見る。
冗談を言っている顔ではなかった。
だが——現実感が追いつかない。
「……ずっと、それをやってきたの?」
「続けてきました」
九条が引き取る。
「桃霞は格闘の実績を持っています。国内大会で複数回入賞。最高順位は、一位」
沈黙。
今度は、沈み込むような静けさだった。
向日葵が、ゆっくり桃霞を見る。
隣に座っている。
同じ椅子に。
同じ高さで。
「……優勝してるの」
「はい」
「……全然、知らなかった」
呟きだった。
空が、小さく息を吸った。
「オーディションの日に……」
言いかけて、止まる。
記憶を照合している。
「……だから、あの足音が」
誰にも向けていない言葉。
だが、全員に届いた。
若葉が、顔を上げる。
「オーディション会場で、何かあったんですか」
九条が答える。
「審査中に乱入者を制圧しました。桃霞が」
「制圧」
若葉が、その単語を繰り返す。
繰り返しただけで、ペンが止まった。
莉恋は、ずっと黙っていた。
桃霞を見ていた。
横顔。
揺れない視線。
動かない表情。
(この人は——最初から、別の世界の人間だった)
自分が格闘家であることを。
ここに来る前から。
知っていた。
それを、一度も言わなかった。
杏が、静かに言った。
「スタジオで、隣で踊っていたのに」
驚きではなかった。
事実確認だった。
桃霞は、杏を見る。
「はい」
「……何も変わらないのね」
「変わる理由が、ありません」
杏は、小さく目を細めた。
何かを確認するように。
九条が続ける。
「理由は三つ。一つ、技術の裏付けがある。二つ、オーディションで実際に機能した。そして——」
一拍。
「三つ、彼女の笑顔は、まだ完成していない」
誰かが、呼吸を止めた。
「完成していないから——伸びる」
「過程そのものが、商品になる」
向日葵が、桃霞を見る。
今度は、“格闘家”としてではなかった。
何か別のものを見る目だった。
九条は、全員を見渡した。
「あなたたちは、アイドルです。歌い、踊り、笑う。それは変わらない」
一拍。
「ただし——ゆめいろシフォンのステージには、もう一層ある」
「その層を、世間はまだ知らない」
「最初に知るのは——次のライブの観客です」
若葉が口を開く。
「この方針は、提案ですか。決定事項ですか」
「決定事項です」
「拒否権は」
一秒。
「あります」
室内が、少しだけ動いた。
「ただし」
九条の声は変わらない。
「ゆめいろシフォンの未来も、そこで変わります」
沈黙。
それは、選択肢ではなかった。
責任だった。
九条は、それ以上説明しなかった。
莉恋が、初めて口を開く。
「……桃霞さんは」
全員が、莉恋を見る。
「アイドルになりたくて、ここに来たんですか」
九条ではない。
桃霞への問いだった。
室内が静まる。
桃霞は、莉恋を見る。
一秒。
二秒。
「……知りたいことがあって、来ました」
「何を」
莉恋は、すぐに返した。
「あの笑顔が、何なのかを」
沈黙。
莉恋は、桃霞から視線を外さなかった。
だが——胸の奥で、何かが動いた。
桃霞は続ける。
「私は——笑顔が、わかりません」
静かな声だった。
「だから、知りたいと思いました」
杏の視線が、初めて揺れた。
空も、桃霞を見る。
「……今の、初めて聞きました」
小さく言った。
桃霞は、何も返さない。
莉恋は、桃霞を見ていた。
怖かった。
理解できない。
でも——少しだけ。
目を離したくないと思った。
九条が、最後に言う。
「話は以上です」
それだけだった。
上座を離れる。
ドアへ向かう。
止まらない。
振り返らない。
ドアが閉まった。
七人が残る。
陰影がない空間は、感情の逃げ場がなかった。
最初に動いたのは、向日葵だった。
「……ねえ、桃霞ちゃん」
桃霞が見る。
「優勝って……何人くらい倒したの?」
苺が、噴き出した。
「向日葵! 聞き方!」
「だって気になるじゃん!」
空気が、少しだけ緩む。
桃霞は少し考えた。
「……トーナメント形式だったので、四人です」
「四人……」
向日葵が、静かになる。
苺が、桃霞を見る。
「……ずっと隣にいたのにね」
責めていない。
不思議がっている。
「言う機会が、ありませんでした」
「……そっか」
苺は、小さく笑った。
それから、全員を見る。
怖くないわけではなかった。
でも——リーダーとして、止まれなかった。
「じゃあ——練習しよう」
一拍。
「怖いけど」
正直だった。
「やるなら、七人でやろう」
沈黙。
誰も否定しない。
若葉が、小さく頷いた。
空が立ち上がる。
杏も。
椅子が引かれる音。
荷物を持つ音。
七人が動き始める。
莉恋は、最後に立ち上がった。
テーブルの縁から、指を離す。
その指が——わずかに白くなっていた。
桃霞の背中を見る。
音を立てずに歩く背中。
格闘家。
センター。
まだ、現実感はない。
でも。
「笑顔がわかりません」
「笑いたいとは思っています」
その二つの言葉だけが、残った。
7人が廊下へ出る。
足音が響く。
それぞれ違うリズムで。
一つだけ——音がない。
莉恋は、その無音の歩幅を見ながら思った。
(この人は——本当にステージで笑えるんだろうか)
わからない。
怖い。
でも——
見たい、と思った。
それが、センターの足音だった。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




