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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第16話 完璧なのに、届かない

振付師が、音を流した。


低音が、スタジオの床を震わせる。




鏡の前に、七人が並ぶ。


位置につく。


呼吸を合わせる。


音が落ちる。


体が動いた。




新曲のフォーメーション。




細かい。


速い。


切り替えが多い。


一拍でも遅れれば、全体が崩れる。




向日葵が先頭で動く。




苺が横に流れる。




莉恋が回る。




空が半歩下がる。




七人の位置が、音に合わせて変化していく。




桃霞は——見ていた。


一度。


二度。


三度目。


動いた。


完全だった。




角度。


重心。


足運び。


腕の高さ。


視線の流れ。




全部が合っていた。




振付師の口が、止まる。




「……え?」




向日葵が、声を漏らした。




「今、初見だよね?」




「はい」




即答。




「えっ……」




苺が桃霞を見る。




ズレがない。


遅れもない。


体が、もう覚えている。




振付師が聞く。




「……カウント、見てた?」




「はい」




「一回しか説明してないけど」




「記憶しています」




沈黙。




向日葵が、小さく笑った。




「いや……怖……」




冗談めかしていた。


だが、半分は本音だった。




桃霞は、その意味を考えなかった。


ただ、次の指示を待っていた。




「……じゃあ、一回通そう」




振付師が言う。


少しだけ声が変わっていた。




音楽が流れる。


七人が動く。


桃霞も動く。


正確だった。


誰よりも。




だが。


苺は、踊りながら違和感を感じていた。




上手い。


なのに。


何かが、届かない。




視線が合わないわけではない。


表情が硬いわけでもない。


動きも綺麗だった。




でも。


“誰もいない”。


そんな感覚があった。




曲がサビに入る。


指定されたタイミングで、桃霞が笑う。




空気が——止まった。




完璧な笑顔だった。


角度も。


口角も。


目元も。


欠陥はない。




なのに。




向日葵が、小さく言った。




「……なんでだろ」




苺は答えられなかった。


悲しいわけじゃない。


怖いわけでもない。




ただ。




見ている側の感情だけが、置き去りになる。




若葉が言う。




「技術は完璧」




断定。




「でも、伝わらない」




空が、小さく首を振った。




「……違うと思う」




全員の視線が向く。


空は、少しだけ桃霞を見た。




「感情は、ある」




間。




「向け先がないだけ」




沈黙。




誰も否定しなかった。




桃霞は、踊り続けている。


笑顔のまま。


鏡の中で。


七人の中で。


一人だけ——




同じ動きをしているのに、同じに見えなかった。




莉恋は、ずっと見ていた。


鏡越しに。


桃霞を。




音楽が止まる。




「そこまで」




振付師が言った。


スタジオに熱が残る。


呼吸音だけが響く。


誰もすぐには喋らなかった。




「……もう一回いこうか」




苺が空気を整えるように言う。




「次は——」




「待って」




低い声だった。


白石莉恋。




全員がそちらを見る。




莉恋は、鏡を見ていた。


その中の——桃霞を。




「一回、止めていい?」




振付師が、少しだけ戸惑う。


だが、止めない理由もなかった。




「……どうぞ」




莉恋が前に出る。


足音が、床に響く。


規則正しく。


迷いなく。




桃霞の前で止まる。


対峙する距離だった。




「櫻井さん」




「はい」




「……誰も、見えてない」




桃霞が、わずかに止まる。




「あなたの踊り」




一拍。




「鏡にしか向いてない」




静かだった。


だが——鋭かった。




向日葵が息を止める。




苺が、何か言おうとして止まる。




桃霞は少し考えた。




「……振り付けは再現しています」




事実だけを置く。




「そうね」




莉恋は即答する。




「再現はしている」




一歩、近づく。




「でも、それだけ」




沈黙。




「……違いが、わかりません」




正直だった。


嘘がない。


だから——重い。




莉恋の目が、わずかに細くなる。




「じゃあ、聞く」


「なんで、そのタイミングで笑ったの?」




「振り付けに指定があったためです」




「じゃあ、その笑顔」




間。




「誰に向けているの?」




桃霞の口が、止まる。


初めてだった。




「……」




考えている。


だが——出てこない。




「わかりません」




スタジオが静まる。


莉恋は、目を逸らさなかった。




「そう」




短く言う。




「それが答え」




さらに続ける。




「アイドルって、見てもらう仕事じゃない」




間。




「“届ける”仕事なの」




視線が真っ直ぐ向く。




「だから」


「向け先がないまま踊ると——止まる」




言ったあと。


ほんの一瞬だけ。




莉恋自身が、その言葉に刺された顔をした。


すぐに消える。




だが、空だけは見ていた。




桃霞は、頷かなかった。


理解できていないからだ。




「……どうすれば、いいですか」




素直な問い。


拒絶はない。




莉恋は、一瞬だけ言葉に詰まる。




指先が、わずかに動いた。




「……それを考えるのが、アイドルでしょ」




少しだけ強い声。




「誰に届けたいのか」


「何を伝えたいのか」




止まる。


言い過ぎる直前で。




「……それがないなら」




間。




「ステージに立っても、残らない」




今度は、“否定”ではなかった。


経験だった。




沈黙。




空気が重く落ちる。


そのとき。




「はい、そこまで!」




苺が前に出た。


自然に。


二人の間へ入る。




「莉恋ちゃん、言ってることはわかる」




まず、肯定する。




「でも、いきなり全部は無理だよ」




桃霞を見る。




「ね?」




「はい」




変わらない声。


だが——逃げていない。




苺は少しだけ笑った。




「桃霞ちゃんさ」


「まず、“一人”でいいと思う」




「一人?」




「うん」




「お客さんでも、メンバーでも」


「“この人に届ける”って決めて踊るだけで、結構変わるから」




桃霞は考える。


数秒。




「……わかりました」




完全には理解していない。


だが。


受け取っている。




「じゃ、もう一回やろ!」




苺が手を叩く。


空気が少し戻る。




音楽が流れた。


七人が動く。


桃霞も動く。


同じ振り。


同じ精度。


同じ動き。




——だが。




ほんの少しだけ。


視線が、定まっていた。


一点に。




空が、小さく呟く。




「……変わった」




誰にも聞こえない声だった。




莉恋は、何も言わなかった。


だが——視線は外さなかった。




二度目の通しが終わる。




沈黙。




さっきとは、重さが違った。




向日葵が先に口を開く。




「……ちょっと変わったよね?」




若葉が短く言う。




「視線」


「固定された」




空が頷く。




「迷いが減った」




苺は、何も言わなかった。


ただ桃霞を見ていた。




変化はあった。


でも。


それが“正しい変化”かは、まだ分からない。




桃霞が水を飲む。


呼吸は乱れていない。




「……どうでしたか」




事実確認の声。




向日葵が苦笑した。




「どうでしたかって……」


「テストじゃないんだから」




「でも、大事なことだと思う」




苺が言う。




「今の、ちゃんと変わってたよ」




一度、肯定する。




「ただ——」




少しだけ間。




「まだ、“向けてるだけ”かな」




桃霞が、その言葉を処理する。


向けている。


だが、それだけでは足りない。




「……理解が、不十分です」




正直に言う。




「いいよ、それで」




苺はすぐ答えた。




「最初からわかる人なんて、いないし」




「……わからないまま、形だけ整う方が危ない」




静かに、莉恋が言う。




空気が変わる。




「“それっぽく”見えるようになるから」




視線は桃霞から外さない。




「中身がないまま」


「それ、一番止まる」




断定だった。


経験から来る声。




桃霞は、否定しなかった。


できなかった。




「……では、どうすれば」




また同じ問い。




莉恋は、少しだけ目を伏せる。


ほんの一瞬。




「自分で見つけて」




静かに落とす。


距離のある言葉だった。




「はい、今日はここまで!」




振付師が空気を切った。




「各自ストレッチして、解散!」




音が戻る。


誰かが笑う。


スマホを触る。


日常が戻る。




だが。




一人だけ——戻っていなかった。




桃霞は、鏡の前に立っていた。


一人で。




笑う。


完璧な角度。


同じ口角。


同じ筋肉。


同じタイミング。




違いを探す。


分からない。




もう一度、笑う。


分からない。




数秒後。




口角だけが、先に落ちた。




遅れて。


目が、笑うことをやめた。




桃霞は、それを見る。




「……違う」




小さく呟く。




初めてだった。


“わからない”ではなく。


“違う”と感じたのは。




鏡の中の自分は、完璧に笑っていた。




でも。




誰にも届いていないことだけは——わかっていた。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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