第15話 まだ言えない何か
六月四日(水) 朝八時二十分
六月の横浜は、梅雨に入っていた。
空が低かった。
雲が厚く、光が均一に広がっている。
海の匂いに、湿気が混じっていた。
浅井麻衣の今日の服装は、ダークネイビーのジャケットに、白のシャツブラウス、チャコールのスラックス。
梅雨の日の格好だった。
傘を持って出たが、まだ降っていない。
だが、空気はもう、雨の前だった。
ビルのエントランスを入る。
受付の中林さんが顔を上げた。
「おはようございます。今日も何かありそうですね」
「どうしてわかるんですか」
「係長が、いつもより早く来ていたので」
「……そうですか」
「顔が、何かある日の顔でした」
麻衣は少し考えた。
「係長の顔に、そういう種類があるんですか」
「あります。十年以上見てきたので」
「……参考にします」
エレベーターで四階に上がった。
オフィスには、すでに藤原係長がいた。
中村先輩と田中も、ほぼ同時に入ってきた。
田中は、紺のシャツにジーンズ、白のスニーカー。
今日もいつも通りだった。
だが——缶コーヒーを二本持っていた。
「麻衣さん、どうぞ」
ブラックだった。
受け取った。
「ありがとうございます」
中村先輩は、ダークブラウンのジャケットに白のカットソー、ブラックパンツ。
ショートカットの黒髪に、今日は細いヘアバンドをしていた。
係長は、濃紺のスーツにボルドーのネクタイ。
靴が、いつもより丁寧に磨かれていた。
中林さんの言葉は、正確だったと思った。
「おい、みんな。聞いてくれ」
全員が係長を見た。
この言い出し方にも、もう慣れていた。
この一か月、それが始まりの合図だった。
「ゆめいろシフォンのライブの日が決まった」
静かに空気が変わった。
「七月四日、土曜日。横浜アリーナだ」
田中の動きが止まった。
「……横浜アリーナ」
「そうだ」
「一万七千人の?」
「そうだ」
田中は、持っていた缶コーヒーを机に置こうとして——少し場所を探した。
机の上は空いていた。
それでも、一瞬迷った。
頭の中で、数字だけが先に膨らんでいた。
一万七千。
去年の全国ツアーを全部合わせても、届かない人数だった。
「会場は、二年前から押さえてあったらしい」
中村先輩が、少し眉を動かした。
「……二年前から?」
「そうだ。このライブに合わせて、新メンバーオーディションも動いていた」
室内が静まった。
麻衣は、頭の中で時間を逆算した。
二年前。
ゆめいろシフォンが結成される前。
人気が落ち始める前。
九条冴子は、すでにこの日を見ていた。
全部が——ここにつながっていた。
麻衣は、缶コーヒーを一口飲んだ。
苦かった。
今日は、その苦さに少し重さがあった。
係長が続けた。
「今回のライブには、新しいものが三つある」
「三つ?」と田中が聞いた。
「新メンバー。新カラー。そして——新要素だ」
「新要素って、何ですか」
「俺も知らん」
田中が、素直に固まった。
「……係長が知らない?」
「今日の午後、九条さんから説明がある。それまでは非公開だ」
「めちゃくちゃ気になるんですが」
「気になるのは分かる。だが、まず動け」
係長が田中を見た。
「田中、お前は今日中にライブ告知を出せ。「七月四日、横浜アリーナ」まずはそこを広めろ」
「わかりました」
「それと、チケット販売と販促管理を担当しろ。一万七千席だ。SNSの反応も含めて全部追え」
「……はい」
返事はした。
だが、“一万七千席を埋める”という現実が、まだ完全には飲み込めていない顔だった。
係長が中村先輩を見る。
「中村、演出と当日進行を頼む。舞台袖から終演まで、全体を見ろ」
「わかりました」
そして——麻衣を見た。
「浅井、お前はメンタルケア担当だ」
麻衣は、係長を見返した。
「……私が、ですか」
「九条さんの指名だ」
「専門資格はありません」
「わかっている」
係長は、一度だけ息を吐いた。
「九条さんはこう言っていた。“浅井さんは、感じたことを無理に言葉にしない人です”」
麻衣は、黙って聞いた。
「“メンタルケアに必要なのは、そういう人間だ”——以上だ」
処理しきれなかった感覚を、保留のまま持っておく。
判断できないまま、続きを見る。
それが——今度は別の形で必要になる。
「特に、白石莉恋を見てやってくれ」
係長の声が、少しだけ低くなった。
「カラー変更。新メンバー加入。ライブまで一か月。全部が同時に来ている」
麻衣は頷いた。
「……何をすればいいですか」
「見ていろ」
「見て、どうするんですか」
「何か崩れたら、気づけ」
「気づいた後は」
係長は、少し考えた。
「……そのとき考えろ」
麻衣は、一秒黙った。
曖昧だった。
業務指示としては、不完全だった。
だが——妙に正確だった。
「……わかりました」
「不安か」
「はい」
「それでいい。自信満々な奴より信用できる」
係長はそれだけ言った。
午前中。
田中が、ライブ告知文を作った。
今日は、麻衣に最初から確認を求めなかった。
自分で組み立て、係長に提出した。
係長は一読し、言った。
「九条さんに送れ」
田中がメールを送る。
三分後、返信が来た。
「このままで出してください」
田中は、その文面を数秒見ていた。
「……麻衣さん、見てもらえますか」
画面を向けた。
『七月四日(土)、横浜アリーナにて「ゆめいろシフォン LIVE 2026」を開催します。新メンバー、新カラー、そして——まだ言えない、新しい何かが、この夜に生まれます。チケット情報は近日公開』
麻衣は読んだ。
「“まだ言えない、新しい何か”——これは田中君の言葉ですか」
「はい。“新要素”より、感情が先に動くと思いました」
「なぜですか」
「“新要素”は内容を考え始める。でも、“まだ言えない何か”は、その前に“何だろう”が来る」
麻衣は少し考えた。
「……正確です」
田中が笑った。
「麻衣さんの“正確です”って、かなり嬉しいんですよ」
「事実を言っています」
「それが嬉しいんです」
午前十一時。
田中が、投稿ボタンを押した。
一秒。
三秒。
五秒。
通知が増え始めた。
「横浜アリーナ!?」
「一万七千!?」
「桃霞ちゃんの初ステージ!?」
「“まだ言えない何か”って何?」
「気になりすぎる」
反応は、止まらなかった。
田中が画面を見ながら、小さく息を吐いた。
「……来てますね」
「そうですね」
「“まだ言えない何か”への反応が、一番強いです」
「一番気になるように書いたので」
「それ、普通にすごいこと言ってますよね」
「事実です」
午後になっても、反応は増え続けた。
「去年の倍の規模じゃん」
「桃霞ちゃん、いきなり横浜アリーナ?」
「莉恋ちゃんのラベンダーパープル、初披露ここか」
「ちょっとずつ楽しみになってきた」
田中が、その投稿を見せた。
「最初は、カラー変更への拒否感が多かったんです。でも今日は、“楽しみ”って言葉が増えてきました」
麻衣は、その文を見た。
“ちょっとずつ楽しみになってきた”
「……正直な言葉ですね」
「正直?」
「一気に受け入れたわけじゃない。少しずつ、自分を慣らしている。その過程が、そのまま出ている」
田中は頷いた。
「莉恋ちゃん本人も、そうなのかもしれませんね」
麻衣は、すぐには答えなかった。
「……そうかもしれません」
午後二時。
中村先輩が、九条との打ち合わせから戻ってきた。
顔に、少し妙な色があった。
驚き。
興奮。
そして——警戒。
「“新要素”がわかった」
田中が身を乗り出した。
「何ですか」
中村先輩は、一拍置いた。
「ライブ中に、“乱入者”が出る」
空気が止まった。
「もちろん事前に仕込まれたスタッフ。危険人物じゃない。でも——観客には知らせない」
「……それって」
「桃霞ちゃんが対応する」
田中が、言葉を失った。
「格闘、ですか」
「そう。観客には演出に見える。でも——実際には本物の攻防になる」
中村先輩は、少し低い声で続けた。
「もし観客が“演出じゃない”と感じたら、混乱が起きる可能性もある」
麻衣は、その言葉を聞いた。
一万七千人。
もし空気が崩れれば、パニックになる規模だった。
「九条さんは、“誰も見たことのないものを見せる”って言ってた」
田中が、ゆっくり息を吐いた。
「……すごいですね」
「すごいし、怖い」
中村先輩は即答した。
「桃霞ちゃんは戦える。でも——“笑顔のまま、一万七千人の前で戦えるか”は、まだわからない」
麻衣は、その言葉を聞いていた。
笑顔を保ちながら、戦う。
“まだ笑い方を知らないアイドル”が。
一か月後。
横浜アリーナで。
麻衣は、自分の中に小さな違和感を感じていた。
最初は、観察だった。
整理だった。
判断保留だった。
だが今は——少し違う。
続きを見たい、ではない。
見届けなければならない気がしていた。
その感覚が、少しだけ怖かった。
帰り道。
外は雨だった。
麻衣は傘を開いた。
観覧車の光が、雨の向こうで滲んでいる。
止まっていなかった。
一か月後。
七月四日。
横浜アリーナで、何かが起きる。
莉恋が、ラベンダーパープルで立つ。
桃霞が、一万七千人の前に出る。
そして自分は——それを、見る。
見届ける。
雨が傘を叩いていた。
一定のリズムで。
麻衣は、梅雨の横浜を歩き続けた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




