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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第14話 まだ、不思議です

六月三日(火) 午後七時十四分




仕事終わり。


白石莉恋のSNS更新通知が、一斉に広がった。


投稿は、文字だけだった。




ラベンダーパープル。


まだ、自分でも少し不思議です。


でも。


ちゃんと、自分の色にしていきます。




画像はない。


絵文字もない。


短い文章だけ。


だからこそ、


言葉そのものが目立った。




コメント欄が、一気に流れ始める。




『莉恋ちゃん本人の言葉だ』


『まだ不思議って言ってくれて、少し安心した』


『無理に平気って言わないところが好き』


『見ていてください、じゃなくて「自分の色にする」って言うんだ』


『莉恋ちゃんらしい』




昼間多かった、強い言葉は減り始めていた。




『桃霞ちゃんをまだ見られない』


『運営に腹立つ』




感情は消えていない。


だが——流れが変わる。




『でも、応援したい』


『ラベンダーパープル、似合う気がしてきた』


『ちゃんと見届けたい』




田中は、コンビニの前で投稿を読んでいた。


画像がない。


だから、逃げ場もなかった。


文章だけで、莉恋本人がそこにいる。




「……強いな」




小さく呟く。


胸の奥の緊張が、少し緩んでいく。




中村先輩は、帰宅中の電車で投稿を見た。




「写真なしなんだ」




その一言が、逆に強かった。


演出がない。


表情もない。


衣装もない。


だから、ファンは言葉だけを見る。




「まだ不思議です」




その曖昧さ。


完成していない温度。


それが、逆に本物だった。




「……これ、空気変わるね」




窓の外の夜景が、静かに流れていった。




麻衣は自宅で、その投稿を何度も読み返していた。


写真がない。


だから、想像するしかない。


今、莉恋がどんな顔で、この文章を書いたのか。




(正直だ)




そう思った。


取り繕っていない。




「嬉しい」でもない。


「頑張ります」でもない。




「不思議です」その曖昧さを、隠さなかった。




麻衣は、台帳に書く。




「ファンの反応が、心配から「見届けたい」に変わり始めている。」




午後九時二十分。


流れは、さらに変わっていた。




『ラベンダーパープルの莉恋ちゃん、綺麗なんだろうな』


『写真ないの逆に強い』


『言葉だけでこんな空気変わる?』


『投稿見て余計好きになった』


『「まだ不思議です」って言えるの強い』




「かわいそう」は減り、代わりに増えたのは——




『守りたくなる』


『見届けたい』


『今までで一番気になる』


『ラベンダーパープルになってから、逆に目が離せない』




感情の向きが変わっていく。




「心配」から、「注目」へ。


そして——「熱量」へ。




さらに投稿が流れる。




『これ、完全に九条冴子の勝ちじゃん』


『悔しいけど、めちゃくちゃ気になってる』


『炎上したのに、結果的に莉恋ちゃんの存在感がもっと大きくなってる』


『チェリーピンク奪われたって最初は思った』


『でも投稿見たら、「ラベンダーパープルの莉恋」を見たくなってる』


『完全に心動かされている。悔しい』




中村先輩は、スマートフォンを閉じて呟く。




「……これ、人気上がるね」




炎上している。


だが同時に、ファンの視線は、今まで以上に莉恋へ集まっていた。




「見たい」


「追いたい」


「変化を見届けたい」




その熱量が、一気に生まれていた。




麻衣は、最後に一つの投稿で指を止めた。




『悔しいけど、九条冴子に転がされてる』


『でも、その中心にいる莉恋ちゃんが、綺麗すぎる』




麻衣は、その言葉を静かに読んだ。




九条冴子は、ファンを揺らした。


怒らせた。


不安にさせた。


そして——


視線を集中させた。




来週、今日生まれた感情に、形が与えられる。


全部、一本の線につながっていた。


麻衣は、小さく呟く。




「……してやったり、ですね、冴子さん…」




窓の外では、観覧車が回っていた。


六月の夜の中で、静かに、止まらずに。





翌週の月曜日。




ゆめいろシフォンのリハーサルスタジオへ続く廊下は、午後の光を受けて白かった。


梅雨前の、乾いた午後だった。




エレベーターを降りた瞬間、音があった。


四つ打ちのビート。


床を打つ足音。


誰かの笑い声。


生きている空間の音だった。




桃霞は、スタジオの前で止まった。


金属製のドアに手をかける。


——あの感覚があった。


微弱な、しかし確かな「何か」。


定義できない。だが、消えない。




ドアを開けた。


音が、一段階大きくなる。


光が広がる。




スタジオの中に、六人の少女がいた。


三面の鏡。


白い蛍光灯。


リノリウムの床。


汗とワックスの匂い。




全員が、一斉に振り向いた。


視線が重なる。


桃霞も、見る。




春日苺。


赤みがかった髪を高く結んだポニーテール。


笑顔のまま、真っ直ぐこちらを見る。


——中心に立つ人間。




水瀬空。


長い青髪。


静かだが、耳だけがこちらを向いている。




橘向日葵。


金髪のお団子。


一番先に表情が動いた。




霧島若葉。


メモ帳を持っている。


観察している目だった。




御堂杏。


橙色のサイドポニー。


動かない。




そして——


白石莉恋。


茶色の低いツインテール。


整いすぎているほど整った立ち姿。


目が、合った。


一瞬。


逸らされた。




「あ、来た!」




空気を破ったのは、苺だった。


軽やかに駆け寄る。




「新メンバーの子だよね? 苺っていいます」




距離が近い。


だが、圧がない。


受け入れる距離だった。




桃霞は一礼した。




櫻井桃霞とうかです。よろしくお願いします」




正確な動きだった。




「みんな、新しい子!」




苺が振り返る。


その瞬間——部屋の空気が、わずかに止まった。




苺は、笑顔を崩さなかった。


それは、できた。


だが胸の奥では、別の感覚が動いていた。




(来た)




知っていたことだった。


新メンバーが入ることも。


自分たちだけでは、グループが続かないかもしれないことも。


全部、分かっていた。


それでも。


実際に目の前へ現れると、思っていたより重かった。




桃霞は、静かだった。


静かなのに——空間の密度だけが変わる。


苺は、それをうまく言葉にできなかった。


ただ、




(この子、何者なんだろう)




という問いだけが、残った。




「うわ、すごい綺麗!」




向日葵が言った。


本当に、そう思った。




ピーチピンクのツインテール。


白い肌。


完成された顔立ち。




だが。


向日葵の視線は、一瞬だけ莉恋へ流れた。


ほんの一瞬。


すぐ笑顔に戻る。


自分でも、なぜ見たのか分からなかった。


ただ——胸の奥に、小さな重さだけが残った。




若葉は、メモ帳を開いた。


ペンを走らせる。




『変数、追加』




それだけ書いて、閉じた。




空は、小さく会釈した。


言葉はなかった。


足音がしない。


それが、最初に分かったことだった。


桃霞はそこにいる。


だが、歩いてきた痕跡が薄い。


空は、その違和感を整理できないまま、窓の外へ視線を向けた。




杏は、動かなかった。


ただ見ていた。


新しいメンバー。


それだけのはずだった。


だが——何かが違う。


その「違う」の正体までは、まだ分からない。


 


莉恋は、スタジオの端でメモをめくっていた。


ページをめくる。


また、めくる。


内容は入ってこない。




「櫻井桃霞です。よろしくお願いします」




背中越しに声を聞く。


振り向かなかった。


振り向けなかったわけではない。


振り向かなかった。




今、振り向くと——まだ形になっていない感情に、触れてしまう気がした。


チェリーピンクは、自分の色だった。


結成から、ずっと。


変わると決めた。


受け入れると口にしたのも、自分だった。




だが。


それを本当に「自分で決めた」と言えるのかは——まだ分からなかった。




ページを、また一枚めくる。


指だけが動いていた。


 


「よろしくお願いします」




桃霞が、もう一度言った。


空気が、少し静まる。


誰も何もしていない。


ただ、そこに立っているだけだった。


それだけで——六人の知っているスタジオと、少しだけ違った。


桃霞は、その変化を感じ取っていた。




苺の笑顔の奥にある、整理されていないもの。


向日葵の迷い。


若葉の保留。


空の沈黙。


杏の観察。


莉恋の背中の重さ。




言葉にはできない。


だが——確かに流れてくる。


そして、その中心に自分がいることも、分かっていた。




うずきがあった。


テレビの中の少女たちを見たときと同じ種類のもの。


定義できない。


だが、消えない。




(ここには——何かがある)




桃霞は、そう思った。




「じゃあ、始めよっか」




苺が言った。




その一言で、部屋が動き出す。


荷物を置く音。


床を踏む音。


準備の音。




七人が、同じ空間で動き始めた。


何が始まるのかは、まだ誰にも分からない。


蛍光灯の白い光が、七人を均等に照らしていた。


影がなかった。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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