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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第13話 誰も「大丈夫」と言わなかった

六月三日(火) 午前八時十分




六月の横浜は、湿度を含んでいた。


海の匂いが濃い。


薄曇りの空。


影の薄い朝だった。


浅井麻衣は、黒のトレンチコートを脱ぎながらオフィスに入った。




藤原係長がいた。


田中も、中村先輩もいた。


全員が揃ったのを確認して、係長が言う。




「おい、聞いてくれ」




昨日と同じ声だった。


だが——空気は違った。




「莉恋の担当カラーが変わる」




一秒。




「ラベンダーパープルだ」




誰も、すぐには反応しなかった。


昨日の「ピーチピンク」のときは、


田中が真っ先に声を上げた。


今日は違う。


沈黙が先に来た。


田中が、ゆっくり口を開く。




「……莉恋ちゃんが、ピンクじゃなくなるんですか」




「そうだ」




「本人は、知ってるんですか」




「知っている」




「……受け入れたんですか」




係長は短く答えた。




「本人が「受け入れます」と言った」




田中は、少し黙った。




「……それ、本当に本人の意思ですか」




空気が、わずかに止まった。


係長は田中を見る。




「九条さんの指示だ。ただし、最終的に受け入れると言ったのは本人だ」




「……そうですか」




田中の声は低かった。


係長は続ける。




「SNSで発信しろ。十一時に投稿する」




それだけ言って、自席へ戻った。


オフィスが静かになる。


昨日より、静かだった。




田中が、投稿ボタンを押した。




『メンバー・白石莉恋の担当カラーが変わります。新しい担当カラーはラベンダーパープルです』




数秒後。


通知が、一気に流れ始めた。




「チェリーピンクじゃなくなるの?」


「莉恋ちゃん、大丈夫なの」


「受け入れられない」


「でも、莉恋ちゃんが決めたなら……」




田中が、画面を見つめる。




「……心配している人、多いですね」




中村先輩が頷いた。




「先週のピーチピンクで、みんな覚悟してたのかもね」




麻衣も、自分のスマートフォンを開いた。


流れていく投稿を読む。




『ずっとチェリーピンクだったのに』


『莉恋ちゃんからピンク取らないでほしかった』


『桃霞ちゃん悪くないのはわかってる。でもまだ見れない』




麻衣の指が、止まった。


桃霞への感情。


拒絶というほど強くはない。


だが——割り切れていない。




『後から来た子がピンクなの、まだ納得できない』


『こんなこと思いたくないのに、桃霞ちゃん見ると苦しくなる』




麻衣は、静かに画面を見ていた。


感情の向き先を、


ファン自身も整理できていない。


田中が、小さく言う。




「……桃霞ちゃんに向いてる声もありますね」




「あるでしょうね」と中村先輩が答えた。


「色って、ファンにとっては記号じゃないから」




その言葉のあと、田中が別の投稿を開いた。




「こっちは、九条さんへの反応です」




画面を見せる。




『どう見ても運営主導でしょ』


『九条冴子、また話題作りしてる』


『ファンの感情まで計算されてる感じがして怖い』




麻衣は、その文章を読んだ。




『悔しいけど、めちゃくちゃ気になってる』


『九条さん、完全にファン心理読んでるじゃん』




スクロールする。




『戦略として正しいのはわかる。でも莉恋ちゃんでやらないでほしかった』




麻衣は、少しだけ息を止めた。


(理解されている)


九条冴子の設計が。


ファンは、感情を動かされていることに気づいている。


それでも——反応してしまう。




「……すごいですね」




気づけば、麻衣はそう言っていた。


田中が顔を上げる。




「九条さんが、ですか?」




「はい」




麻衣は画面を見たまま続けた。




「批判されているのに、ファンの視線を完全に集めている」




「……確かに」




「しかも、嫌われることまで計算に入っている気がします」




中村先輩が苦笑した。




「怖い言い方するね、麻衣さん」




「事実です」




麻衣は、もう一度画面を見る。


桃霞を見られないファン。


九条を嫌悪するファン。


それでも莉恋を信じようとするファン。


感情が、混ざっていた。




悲しみ。


拒絶。


怒り。


困惑。




その中で。


少しずつ、


別の言葉も増え始めていた。




『でも、ラベンダーパープルの莉恋ちゃんも見たい』


『莉恋ちゃんが「これが私」って言えるなら、待ちたい』


『桃霞ちゃんも苦しい立場だと思う』


『結局、莉恋ちゃんを信じるしかない』




田中が、小さく息を吐いた。




「……整理し始めてますね」




「そうですね」と麻衣が言う。




ファンは、自分の感情をそのままぶつけ続けているわけではなかった。


怒りながら。


戸惑いながら。


それでも——前を見ようとしている。


麻衣は、その流れを見ていた。




九条冴子が動かした波。


だが、その波の先で何を選ぶかは、ファン自身が決めている。




そして。


莉恋という存在が、その選択を支えている。




(信頼、なんだ)




麻衣は、静かにそう思った。


色ではなく。


もう、人を信じ始めている。





六月の夜の控室は、まだ熱を持っていた。




リハーサルが終わって三十分。


汗と制汗剤の匂いが、薄く混ざって残っている。




蛍光灯が、天井から均一な白い光を落としていた。


影ができない。


この部屋では、誰の表情も隠れない。


三面鏡の前に、七人分の荷物が散らばっていた。




タオル。


衣装ケース。


スマートフォン。


飲みかけのペットボトル。




それぞれが、それぞれの速度で帰る準備をしている。




向日葵は鏡の前で、片方のお団子をほどいていた。


黄金色の髪が、肩へ落ちる。




若葉は椅子に座り、スマートフォンを見ていた。


緑がかったボブが、俯いた動きに合わせて揺れる。




杏は部屋の奥に立っていた。


何もしていないように見えて、部屋全体を見ていた。




空は窓際にいた。


小さな窓の向こうに、六月の横浜の夜景が滲んでいる。




苺は荷物を整理していた。


ベリーレッドのポニーテールは、まだ解いていない。




そして——




白石莉恋は、鏡の前に立っていた。


茶髪のツインテールが、少しだけ崩れている。




三日前。


九条に「受け入れます」と言った。


今日、担当カラー変更が正式に発表された。




ラベンダーパープル。




朝から、SNSを何度も見た。




「チェリーピンクじゃないの?」


「莉恋ちゃん大丈夫?」


「でも、莉恋ちゃんが決めたなら」




最後の一文だけが、頭に残っていた。




(私が、決めた)




そうだ。


最後の言葉は、自分で言った。


強制ではない。




だが——納得したのかと言われれば、まだ分からない。




ただ、


止まり続けることだけは違うと思った。


だから、動いた。




鏡の中の自分は、まだ答えを持っていない顔をしていた。


それでも。




「このままじゃない」




それだけは、分かっていた。


莉恋が口を開いた。




「一つ、言います」




声は静かだった。


けれど、その一言で部屋の空気が変わった。




向日葵の手が止まる。




若葉の指が、画面の上で止まる。




空が、窓から視線を戻した。




苺が、タオルを持つ手を下ろす。




杏だけが、動かなかった。




全員が、莉恋を見た。


蛍光灯の白い光の中で。




「私、ラベンダーパープルに、なります」




短かった。


理由も言わなかった。


説明もしなかった。


ただ、報告だけを置いた。




部屋が静まる。


エアコンの低い音が聞こえた。




莉恋は鏡を見たまま、全員の視線を受けていた。


逃げなかった。




三日間、この言葉をどう言うか考えていた。


どんな顔で言うか。


何を付け足すか。


最後には、全部やめた。


これだけでいいと思った。




沈黙が続く。


最初に動いたのは、苺だった。




「そっか」




苺はそれだけ言って、荷物を取りに歩き出した。


莉恋の横を通る。


その直前——歩く速度が、一歩分だけ落ちた。


目は合わせない。


何も言わない。


けれど、その一歩だけで、十分だった。




莉恋は、胸の奥で何かを受け取った。


言葉にはできなかった。




空が、静かに莉恋の前まで来た。


何も言わない。


ただ、一度だけ頷いた。


小さく。


確かに。




莉恋は、その頷きを見た。




意味は分からない。


けれど、「聞こえた」と言われた気がした。




空は、そのまま自分の荷物へ向かった。




若葉がスマートフォンを閉じた。


小さな音が、部屋に鳴る。


画面が暗くなる音。


それだけだった。




でも莉恋にはわかった。




若葉は今、この部屋以外を見ないと決めた。




杏は、ずっと部屋の奥に立っていた。


視線だけが、莉恋に向く。


目が合う。


一秒。


杏は先に視線を外した。


何も言わなかった。




「大丈夫?」も、


「頑張って」も。




ただ、視線だけを残した。


それで十分だった。




向日葵だけが、少し遅れた。


みんなが動き始めた後も、鏡の前で止まっていた。


ほどきかけの金髪のまま、莉恋を見ている。


何かを言おうとしている顔だった。


でも、言葉が見つからない顔でもあった。




向日葵は、黙るのが苦手だ。


言葉があるなら、すぐ口に出る。


そんな向日葵が、一拍だけ黙った。


そして。




「……似合うと思う」




声が、少しだけ震えていた。


感想ではなかった。


確信として、言った。




莉恋は向日葵を見る。


向日葵の目が揺れていた。


泣きそうで。


でも泣いていない。




「……そう」




莉恋は短く返した。


それだけだった。




でも、向日葵の言葉はちゃんと届いていた。


向日葵は少しだけ笑って、荷物を取りに向かった。




外で、誰かの笑い声がした。


遠かった。


控室の中だけが、静かなままだった。




誰も「大丈夫」とは言わなかった。




誰も「頑張れ」とも言わなかった。




荷物を持つ音。


コートを羽織る音。


ドアが開く音。




その中で、莉恋だけが鏡の前に残っていた。


鏡の中の自分を見る。


答えは、まだない。


ラベンダーパープルが自分のものになるのかも、まだ分からない。


でも。




苺の一歩。




空の頷き。




若葉の音。




杏の視線。




向日葵の「似合うと思う」。




全部、ちゃんと届いていた。




このグループは、一年間かけて、


言葉を減らしてきた。


減らしても、伝わる場所になっていた。




莉恋は、自分のツインテールを直した。


左。


右。


少しずつ整えていく。


答えは、まだない。




けれど、


整えながら前を向くことはできる。


今の自分にできるのは、それだった。




控室に、莉恋だけが残る。


蛍光灯の光は変わらない。


誰もいなくなっても、


白い光だけが部屋を照らしていた。




莉恋は荷物を持った。


コートを羽織る。


電気を消す。


廊下へ出る。




足音が、静かに響いた。


一定のリズムで。




莉恋は、その音を聞きながら歩く。


乱れていなかった。


それを確認して、


夜の廊下を進んだ。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中

https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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