第12話 ラベンダーパープルとして
六月二日(月) 午前八時五分。
みなとみらいの朝は、今日も変わらなかった。
海風がビルの隙間を抜ける。湿度は昨日よりわずかに高い。
浅井麻衣は、いつもより落ち着いた服で出勤していた。
発表の翌週。その感覚だけが、服装に出ていた。
オフィスに入ると、藤原係長が言った。
「新メンバーの担当カラーが決まった。ピーチピンクだ」
一瞬、空気が止まる。
「ピンクは……莉恋ちゃんがいますよね?」
田中の声は、仕事ではなくファンのものだった。
「その通りだ」
藤原係長は続けた。
「だが説明はしない。今日の投稿はこれだけだ。『櫻井桃霞の担当カラーは、ピーチピンクです』」
「……意図的に、疑問を残すんですか」
「疑問が注目を作る」
それだけだった。
十一時。
投稿は、たった一行だった。
『新メンバー・櫻井桃霞の担当カラーが決まりました。ピーチピンクです』
三十秒後、反応が来る。
「ピンクが二人?」
「莉恋ちゃんどうなるの?」
予想通りだった。
麻衣は画面を見ながら考えていた。
先週の発表で、すでに疑問は生まれていた。
今日の投稿は、それを拡張しただけだ。
(新しい疑問じゃない。大きくしている)
構造は理解できる。
だが――
引っかかりは、あった。
昼過ぎ。
ファンの反応は変化していた。
「二人のピンク、どうなるんだろう」
「ライブで見たい」
困惑が、期待に変わっていた。
田中が言う。
「ファンが、自分で変えたんですね」
麻衣は頷いた。
事務所が作ったのは疑問だけ。
その先は、ファン自身が動いた。
(……正確だ)
そう思った。
同時に――
莉恋を心配する声も、確かにあった。
「人前では平気な顔するタイプだから、余計に心配」
その一文で、手が止まる。
ファンは、見ている。
本当に、見ている。
帰り際、麻衣は一つの投稿で止まった。
「桃霞ちゃんが、笑い方を知る瞬間、見たい」
自分が台帳に書いた言葉と、同じだった。
立場の違う誰かと、同じ願いを持っている。
それを、静かに確認した。
その夜。
麻衣は台帳に書く。
「疑問は期待に変わった。引っかかりは四割から三・五割に減少」
少し考えて、一行足す。
「同じ言葉を、ファンが書いていた」
最後に、もう一行。
「引っかかりと一緒に、続きを見る」
ペンを置いた。
今週、桃霞と直接関わるかもしれない。
そのことを――
少しだけ「楽しみだ」と思った。
リハーサルスタジオには、誰もいなかった。
莉恋は、最初からそれを確認して入った。
鍵を借りるときに、予約表で確かめた。
蛍光灯をつける。
白い光が、均一に広がる。
三面の鏡。
自分だけが、映っている。
音楽は流さない。
一歩。
踏み込む。
床が、正確に鳴る。
ターン。
止まる。
鏡の中の自分が、遅れて止まる。
「ラベンダーパープル」
言葉を当てはめる。
鏡の中の自分に。
似合っているかどうかではない。
そもそも——重ならない。
できない。
当然だった。
それは、自分の言葉ではない。
「ラベンダーパープル」
今度は、ゆっくり言う。
声が、薄い。
小さい、ではない。
輪郭がない。
莉恋は、その事実を記録する。
評価はしない。
もう一度、動く。
ステップ。
ターン。
呼吸。
技術は落ちていない。
ズレもない。
——身体は、正しい。
だが。
鏡の中の自分が、どこを見ているか。
定まらない。
ファンたちでもない。
仲間でもない。
自分でもない。
空白に向けて、動いている。
止まる。
鏡を、まっすぐ見る。
「……誰に向けるの」
問いは、返ってこない。
鏡の中の自分も、同じ顔で黙っている。
——違う。
莉恋は、ほんのわずかに眉を寄せた。
同じではない。
向こうは、“答えを待っていない”。
こちらだけが、止まっている。
莉恋は、初めて目を逸らした。
それが——一日目の記録だった。
二日目。
同じ動き。
同じ精度。
違うのは、視線だけだった。
鏡の中の自分が、まだ定まらない。
だが昨日よりも、はっきりしている。
“誰でもいい”のではない。
それだけが、分かった。
三日目の朝。
答えが降ってきたのではない。
ただ、三日が過ぎた。
それだけだった。
莉恋は鏡の前に立つ。
昨日と同じ。
一昨日と同じ。
だが今日は——棚のペンライトに、触れなかった。
必要がないからではない。
まだ、自分はあれを“振る側”に立てていない。
その自覚がある。
鏡の中の自分を見る。
「ラベンダーパープル」
言葉を置く。
今度は、少しだけ形になる。
自分の言葉ではない。
だが——完全に他人のものでもない。
それは、
“ファンに向けて成立する色”だ。
自分のためではない。
だからこそ、成立する。
莉恋は、一歩踏み込む。
床が鳴る。
視線を上げる。
鏡の中の自分と、目が合う。
——初めて、逃げなかった。
完璧ではない。
だが、止まってもいない。
それでいい、と判断する。
結論は、出ていない。
納得も、していない。
感情は、未処理のままだ。
だが——
止まることは、選択ではない。
それだけは、確定した。
莉恋はスタジオを出た。
足音が、廊下に響く。
規則正しく。
確かに。
九条の執務室へ向かう。
「受け入れます」
その一文を、胸の中で一度だけ確かめる。
重さは、変わらない。
軽くなってから言うのではない。
このまま、言う。
未完成のまま、提出する。
それが——自分の選択だ。
その言葉は、もう戻せない。
そしてそれは、
“ラベンダーパープルとして生きる”ことを、
引き受けるということだった。
「受け入れます」
莉恋は言った。
「ラベンダーパープルを」
九条は頷く。
それだけで、決定した。
だが——
「条件があります」
莉恋は続けた。
「この色を、私のものにします」
一歩も引かない視線。
「誰かの代替ではなく」
「私の色として」
「私が作ります」
沈黙。
九条は、わずかに目を細めた。
評価するように。
「……いいでしょう」
莉恋は一礼した。
部屋を出る。
廊下に出る。
初夏の光が、差し込んでいた。
莉恋は、その光を見た。
目が、わずかに潤む。
だが——泣かなかった。
歩き出す。
足音が、響く。
規則正しく。
確かに、そこにある音として。
苺
九条から連絡が来たのは、翌日だった。
メッセージ。三行。
「莉恋の担当カラーが変わります。詳細は後日。先に伝えておきます」
苺は、スマートフォンを伏せた。
練習着のまま、椅子に座っていた。
窓の外。
初夏の空。
(莉恋ちゃん)
指が、発信ボタンの上で止まる。
今、電話をかければ——
莉恋は、きっと出る。
そう思った。
だから、駄目だった。
苺は、ゆっくり息を吐いた。
音を切る。
スマートフォンを引き出しの中に入れる。
立ち上がった。
誰もいないスタジオで、一人、練習を始める。
足音だけが、床に残った。
一度だけ。
リズムが、小さく乱れた。
◇
空
気づいたのは、音だった。
リハーサルの翌日。
廊下を歩いていたとき、
スタジオの扉の前を通りかかった。
中に、人がいる。
足音。
呼吸。
ターンの擦れる音。
——止まる。
そして。
「……ラベンダーパープル」
小さな声。
扉一枚越しに、
かろうじて届く程度の音量だった。
空は、そこで足を止めた。
意味は分からない。
なぜ、その言葉なのかも。
ただ——
あれは、練習の音ではない。
数秒だけ静止して、
空は、そのまま歩き去った。
ノックはしなかった。
誰にも言わなかった。
言う必要のないことだけは、
分かっていた。
◇
向日葵と若葉
知ったのは、SNSだった。
ファンアカウント。
向日葵がスクリーンショットを送る。
三秒後、既読。
「本当?」
「複数出てる」
沈黙。
向日葵は入力欄を開いた。
「莉恋ちゃんに——」
そこで止まる。
若葉から、先にメッセージが来た。
「待て」
一言。
向日葵は、入力しかけた文字を消した。
「……なんで」
少し間が空く。
「今、聞かれる側はきついでしょ」
短い返信。
向日葵は、画面を見たまま黙った。
それから、
スマートフォンを伏せる。
「……やだな」
小さく漏らして、
最後に一通だけ返した。
「分かった」
◇
杏
杏は、言葉で知ったわけではなかった。
廊下で、莉恋の横を通った。
距離、八十センチ。
その瞬間。
匂いが、違った。
同じ香水。
同じ柔軟剤。
いつもの莉恋の匂い。
けれど——内側だけが張っている。
パフォーマンス前の緊張ではない。
何かを押さえ込んだまま、
均衡だけを保っている匂いだった。
杏は、何も聞かなかった。
ただ、一歩分だけ間合いをずらす。
近づくでもなく、
遠ざかるでもなく。
莉恋が、動けるだけの余白を空ける。
それが、
杏の配慮だった。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




