第114話 存在してはいけない凪
九月三日(水) 午後七時三十分
大阪・北新地
高級クラブ——**月影**。
夜の——営業が始まっていた。
店内は——いつも通りだった。
柔らかな照明。
磨かれた——グラス。
静かに流れる——ピアノの音。
客の——低い話し声。
笑い声。
氷が——グラスに触れる音。
そのすべてが——撫子にとって、慣れた日常だった。
「撫子さん、今日もよろしく」
常連客が——笑った。
「こちらこそ」
撫子も——微笑む。
いつもの——笑顔。
いつもの——声。
いつもの——距離。
何も——変わっていない。
そう——思っていた。
最初の——ミスが起きるまでは。
「水割り、お願いします」
「はい」
撫子は——グラスを取った。
氷を——入れる。
酒を——注ぐ。
水を——加える。
いつもなら。
ここで——自然に手が動く。
客が好む——濃さ。
氷の——量。
水の——温度。
すべて——身体が覚えていた。
だが。
「……」
撫子の——手が止まった。
ほんの——一瞬。
「どうした?」
客が——笑った。
「いえ」
撫子は——すぐに笑った。
「少し、ぼんやりしてしまいました」
グラスを——差し出す。
客は——何も気にしなかった。
「疲れてる?」
「少しだけ」
「無理するなよ」
「ありがとうございます」
笑う。
会話を——続ける。
客は——気づかなかった。
だが。
撫子には——わかっていた。
(今の——何?)
ほんの——一瞬。
次の動作が——見えなかった。
自分の——身体なのに。
次に何をするのか。
その一瞬だけ——わからなかった。
---
午後八時十五分。
別の——テーブル。
「撫子ちゃん、いつもの」
「はい」
撫子は——ボトルへ手を伸ばした。
その瞬間。
違和感。
ボトルを——取る手が。
ほんの少し——遅れた。
カチッ。
グラスの縁に——ボトルが触れた。
小さな——音。
客が——笑った。
「珍しいね。撫子ちゃんでも、そんなことあるんだ」
「……本当ですね」
撫子は——笑った。
客は——気にしていない。
マスターも——気づいていない。
誰にとっても——小さなミスだった。
だが。
撫子は——笑えなかった。
(おかしい)
身体は——問題ない。
疲れても——いない。
なのに。
ほんのわずか。
自分の——時間が。
噛み合っていない。
---
午後九時。
客が——話している途中。
撫子は——次に何を言うべきか、わかっていた。
いつもなら。
客の話が終わる——直前。
その瞬間に——言葉を差し込む。
会話を——途切れさせない。
それが——撫子の技術だった。
だが。
今日は——一拍。
遅れた。
「……」
客が——話し終わる。
撫子が——口を開く。
遅い。
たった——それだけ。
客は——気にしなかった。
「まあ、今日はそんな感じ」
「そうなんですね」
会話は——続いた。
問題は——ない。
仕事にも——支障はない。
それでも。
撫子は——胸の奥に、苛立ちを覚えていた。
(なんで——)
理由が——ない。
ミスの——原因が、ない。
そして。
何より——不本意だった。
撫子は——完璧だった。
少なくとも。
自分自身では——そう思っていた。
瞬凪。
時間を——縮める。
必要な瞬間だけ。
自分だけの——時間を速める。
結果へ——最短で到達する。
それが——撫子の技だった。
なのに。
今日は——その時間が。
微妙に——ずれている。
(誰かが——私の時間に、触ってる?)
そんな——馬鹿げた考えが、浮かんだ。
撫子は——すぐに捨てた。
あり得ない。
そんなものは——存在しない。
少なくとも。
自分が——知る限りでは。
---
午後十時四十分。
店内が——少し落ち着いてきた。
撫子は——常連客の席に座っていた。
「そういえばさ」
客が——スマートフォンを取り出した。
「撫子ちゃん、アイドル好き?」
「突然ですね」
撫子は——笑った。
「俺、最近ハマってるんだよ」
画面を——操作する。
「これ」
映像が——再生された。
大阪城ホール。
大量の——観客。
七人の——少女。
ステージ。
照明。
歓声。
「ゆめいろシフォンって、いうんだけどさ」
「はあ」
撫子は——興味なさそうに画面を見る。
アイドル。
自分とは——縁のない世界。
だが。
次の瞬間。
撫子の——目が止まった。
ステージ上。
七人の——前に。
乱入者が——現れた。
「……」
撫子の——表情が消えた。
映像の中。
桃霞が——動く。
一人。
二人。
三人。
六人。
同じ——少女が。
同時に——存在していた。
そして。
それぞれが——乱入者へ向かう。
次の——瞬間。
六人の——乱入者が。
同時に——倒れた。
客が——興奮した。
「すごくない?これ、演出なんだって。七人体制になってから、こういう特殊演出も、入れてるんだよ」
撫子は——答えなかった。
映像を——見続けていた。
(……違う)
これは——演出ではない。
撫子には——わかった。
動き。
間合い。
踏み込み。
身体の——使い方。
そして。
あの——一瞬。
六人へ——分岐したように見えた身体。
違う。
分岐したのでは——ない。
**可能性を——同時に選択した**
撫子の——背中に、冷たいものが走った。
(凪桜閃流)
間違いない。
だが。
自分の知る——凪ではない。
静凪では——ない。
瞬凪でも——ない。
あの動きには。
静凪の——消失も。
瞬凪の——加速も。
存在しない。
それなのに。
凪桜閃流の——本質だけがあった。
無駄が——ない。
迷いが——ない。
その瞬間に——最も可能性の高い行動を選んでいる。
撫子は——映像を止めた。
画面の中。
桃霞の——顔。
名前が——表示されていた。
**櫻井桃霞**
撫子の——呼吸が止まった。
「この子——」
思わず——口に出していた。
「すごいですね」
客が——嬉しそうに笑う。
「だろ?」
撫子は——画面から目を離さなかった。
「名前は——何というのですか」
「櫻井桃霞だよ」
客は——何気なく答えた。
「これからアイドルとして有名になるよ、きっと」
「櫻井——」
その——名前。
頭の中で——何かが繋がった。
葵。
自分。
そして。
桃霞。
偶然では——ない。
撫子は——スマートフォンの画面を見つめた。
(……まさか)
胸の奥で——何かが崩れた。
そして。
一つの——名前が浮かんだ。
**真凪**
撫子は——知っている。
凪桜閃流には。
静。
瞬。
そして——その先にあるもの。
本来なら。
同じ時代に——複数の完成系が、存在してはいけない。
まして。
自分と——葵が存在している時代に。
新たな——凪が生まれるなど。
あり得ない。
いや。
正確には——。
**存在させてはいけない**
「撫子ちゃん?」
客の声。
撫子は——我に返った。
「あ……すみません」
笑顔を——作る。
いつもの——笑顔。
「ちょっと、見入っちゃいました」
「だろ? すごいよな」
「……ええ」
撫子は——笑った。
だが。
目は——笑っていなかった。
---
午後十一時二十分。
閉店後。
店内から——客が消えた。
照明が——落とされる。
マスターが——帳簿を確認していた。
「撫子、今日はありがとう」
「こちらこそ」
「明日も頼むな」
「……はい」
撫子は——そう答えた。
だが。
店を——出たところで。
足が——止まった。
夜の——街。
ネオン。
車の——音。
人の——声。
すべてが——いつも通り。
なのに。
撫子の中だけが——違っていた。
(お父さん——)
鏡一。
何を——考えている。
なぜ。
静凪と——瞬凪がいる時代に。
真凪を——生んだ。
いや。
生んだのでは——ない。
**生まれてしまった?**
その可能性も——ある。
だが。
あの映像。
あの動き。
あれは——偶然ではない。
撫子は——スマートフォンを取り出した。
連絡先を——開く。
姉。
**櫻井葵**
指が——止まる。
葵とは——ほとんど連絡を取っていない。
それでも。
今は——会わなければならない。
撫子は——決めた。
(明日——)
仕事を——休む。
そして。
(葵姉さんに——会う)
真凪について——話す。
父が——何をしているのか。
そして。
これから——何が起きるのか。
撫子は——夜空を見上げた。
さっき見た——映像が。
まだ——頭から離れない。
六人に——分かれた少女。
あの——異常な動き。
そして。
その——名前。
「桃霞……」
小さく——呟いた。
その瞬間。
撫子の——右手が動いた。
無意識だった。
目の前の——空間を。
ほんの一瞬——掴むように。
そして。
止まった。
「……」
撫子は——自分の手を見る。
また——時間が。
ほんの少しだけ。
ずれていた。
撫子は——笑わなかった。
明日。
葵に——会う。
それが——今の自分にできる。
唯一の——選択だった。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




