第115話 そのアイドルは、私の妹だった
九月四日(木) 午前八時十分
京都。
朝の——生花室。
葵は——一人で作業をしていた。
花器に——水を張る。
茎を——切る。
差す。
角度を——合わせる。
昨日の——異変は、もうなかった。
手は——迷わない。
判断は——正確だった。
静凪は——戻っている。
そう——思っていた。
作業台の——端に置いたスマートフォンが、震えた。
一度。
短く——震える。
葵は——手を止めた。
画面を見る。
表示された——名前。
**撫子**
葵の——目が、わずかに細くなった。
この時間に——撫子から電話。
それだけで——十分だった。
昨夜。
自分が——感じたもの。
静凪の中へ——入り込んだ、異質な感覚。
あの——桜。
あの——視点。
あの——感情。
葵は——迷わず、電話に出た。
「もしもし」
数秒。
向こうから——声が聞こえた。
「……姉さん?」
撫子だった。
久し振りに聞く——妹の声。
葵は——先に言った。
「撫子」
一拍。
「あなたも——気づいたのね」
電話の——向こうが、静かになった。
「……やっぱり」
撫子の——声が低くなった。
「姉さんも——感じた?」
「ええ」
「何が——起きてるの?」
葵は——窓の外を見た。
京都の——朝。
「知らないわ」
「……知らない?」
「私にも、説明できない」
撫子が——少し黙った。
そして。
「今日——会える?」
葵は——時計を見る。
「仕事は——十六時まで」
「じゃあ——その後」
「京都に来るの?」
「行く」
即答だった。
葵は——一瞬だけ目を伏せた。
「わかった」
「人の少ないところがいい」
「そうね」
少し——考える。
「東山にするわ」
「東山?」
「高台に——人の少ない場所がある」
「わかった。そこで」
電話が——切れた。
葵は——スマートフォンを机に戻した。
視線を——花へ戻す。
だが。
今度は——手が動かなかった。
(撫子も——感じた)
偶然では——ない。
---
午後四時二十分
京都——東山。
観光客の——多い通りから少し外れた高台。
木々に——囲まれた細い道。
その先に——古い寺院の境内がある。
夕方には——人影も少ない。
葵は——石段を上がっていた。
先に——来ていた。
境内の——端。
京都の街を——見下ろせる場所に立っている。
風が——吹いた。
木の葉が——揺れる。
葵は——動かなかった。
しばらくして。
「姉さん」
後ろから——声がした。
振り返る。
撫子が——歩いてきた。
普段の華やかな服装とは違う。
それでも。
人の目を——惹きつける雰囲気は、消えていなかった。
「久しぶり」
「そうね」
二人は——向かい合った。
姉妹なのに。
どこか——距離があった。
その距離を——埋める言葉を。
二人とも——持っていなかった。
撫子が——先に口を開いた。
「姉さんも——感じた?」
「ええ」
「やっぱり——」
撫子が——息を吐いた。
「昨日から、変なの」
「私も」
「仕事中に——ミスした」
葵が——撫子を見る。
「あなたが?」
「小さいミスだけどね」
撫子は——苦笑した。
「私、ああいうの嫌いなの。普段できることを、失敗するの」
「私も——昨日、同じことがあった」
「……やっぱり」
二人の間に——沈黙が落ちた。
そして。
撫子の声が——低くなる。
「真凪が——生まれたわよ」
葵の——目が動いた。
「……え?」
「真凪が——生まれた」
「まさか——」
葵の声が——初めて揺れた。
撫子は——続けた。
「他に——説明できる?」
「それは——」
葵は——言葉を失った。
撫子が——スマートフォンを取り出した。
「これを——見て」
画面を——操作する。
動画が——再生された。
大阪城ホール。
ステージ。
歓声。
そして。
乱入者。
六人の——前に。
それぞれ現れる——襲撃者。
撫子は——何も言わなかった。
葵も——何も言わなかった。
ただ。
映像を——見ていた。
桃霞が——動く。
一人。
二人。
三人。
六人。
同じ少女が——同時に存在する。
そして。
六人の——乱入者が。
同時に——倒れる。
映像が——終わった。
撫子は——画面を止めた。
「これ」
指先で——画面を示す。
「演出だと思う?」
葵は——答えなかった。
「静凪じゃ——ない」
撫子が——言った。
「瞬凪でも——ない」
葵の——目が。
画面から——離れない。
「なのに——凪桜閃流の動きなの」
葵の——呼吸が止まった。
映像を——もう一度再生する。
桃霞が——動く。
一歩。
回転。
回避。
攻撃。
すべてが——違う。
静凪のような——消失ではない。
瞬凪のような——加速でもない。
その瞬間。
最も適した——動きを選んでいる。
まるで——。
無数に存在する可能性の中から。
正解だけを——拾い上げるように。
葵の——指先が動いた。
だが。
画面を——止めることができない。
撫子が——言った。
「名前」
「……」
「この子の——名前」
葵は——聞いていた。
画面の端に——表示された名前。
**櫻井桃霞**
その文字を——見た瞬間。
葵の——全身が止まった。
呼吸。
思考。
指先。
視線。
すべてが——止まった。
静凪の——世界。
何も——動かない。
いや。
正確には。
動けない。
「……櫻井」
葵が——呟いた。
撫子は——頷いた。
「そう」
「……桃霞」
その名前を——口にした。
初めて。
自分の——妹の名前を。
葵は——知らなかった。
存在さえ——知らされていなかった。
それなのに。
なぜか——理解してしまった。
この少女が。
自分と——同じ血を持つ。
そして。
自分と——同じ凪の系譜にいる。
「真凪……」
葵の口から——その言葉が漏れた。
撫子が——静かに頷く。
「そうだと、思う」
葵は——画面を見つめ続けた。
桃霞が——踊っている。
ステージの上。
仲間たちに——囲まれて。
歌っている。
そこに——あるもの。
葵には——理解できないもの。
感情。
喜び。
繋がり。
そして。
生きようとする——力。
葵の——目が。
初めて——揺れた。
「……お父さん」
低い——声だった。
撫子が——顔を上げる。
「何を——考えているの」
答えは——なかった。
ただ。
二人の姉妹の間に。
長い——沈黙が落ちた。
風が——吹く。
木の葉が——揺れる。
そして。
葵の手の中で。
スマートフォンの画面だけが。
静かに——光っていた。
そこには。
知らなかった——妹。
櫻井桃霞の姿が。
映っていた。
葵は——画面から目を離さなかった。
その目に。
昨日までにはなかったものが——初めて生まれていた。
**動揺**
そして。
その奥に——。
まだ本人にも理解できない。
ほんのわずかな——感情がうずいていた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




