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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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110/119

第110話 何もない日

八月三十日(日) 午前六時




山の——朝は、早かった。


街よりも——少しだけ、時間が早く流れているように見えた。




鳥の——声。


木々の——葉が擦れる音。


遠くで——沢の水が、岩を打つ音。




それ以外は——静かだった。




古い——木造の家。


その——奥に、道場があった。




畳ではない。


長年使い込まれた——板張りの床。




何度も——踏まれ。


何度も——転がされ。


何度も——人の身体を、受け止めてきた床だった。




障子の向こうから——薄い朝の光が差し込んでいる。




朧は——道場の中央に立っていた。




白い——稽古着。


裸足。


長い髪は——後ろで一つに束ねていた。




表情は——なかった。


眠そうでもない。


疲れているわけでもない。




ただ——そこにいる。


それだけだった。




朧は——ゆっくりと息を吐いた。




構える。




両手を——わずかに前へ。


重心を——落とす。


肩に——力はない。


腕にも——力はない。




それでも——身体全体が、一つに繋がっていた。




凪桜閃流。


無手の——格闘術。




殴る。


蹴る。


投げる。


極める。




その一つ一つを——強くするための武術ではない。


相手より——先に動くことでもない。




相手が——動く前に。


自分の——存在そのものを、動きへ変える。


そのための——技だった。




朧は——一歩、踏み出した。


音が——しなかった。




もう一歩。


音が——しない。




三歩目。


身体が——滑る。


無音の——歩法。




父鏡一から——教えられたものだった。




だが。


朧にとっては——特別な技ではなかった。




歩けば——音がしない。


それだけだった。




朧は——正面に誰かがいるつもりで、右手を伸ばした。


拳ではない。


掌。




相手の——胸元へ触れる。


その瞬間。


身体を——半歩だけずらす。




相手の力を——受け流す。


腰を——落とす。


肩を——入れる。


そして——崩す。




そこに——相手はいない。


それでも——動作は完成していた。




倒した。




そういう——感覚すらない。


ただ——型を終えた。




朧は——立ち上がった。




もう一度。


今度は——打撃。




拳を——握る。


振りかぶらない。




肩も——動かさない。


腰も——大きく捻らない。


ただ——身体の中心が、一瞬だけ前へ移動する。




拳が——前へ出た。


空気が——小さく揺れた。




朧は——拳を開いた。


それだけだった。




「……」




何かが——足りない。


そんな気がした。




朧は——考えた。


だが。


答えは——出なかった。




もう一度——構える。


打つ。


受ける。


崩す。


避ける。


間合いを——詰める。


離れる。


何度も——繰り返す。




時間の——感覚が、薄れていった。




道場の——壁に掛けられた時計。


秒針が——動いている。


一秒。


二秒。


三秒。




朧は——それを見た。


そして——瞬きをした。




秒針が——止まっていた。




「……?」




朧は——首を傾げた。




時計を——見つめる。


動かない。




長針も——動かない。


短針も——動かない。




朧は——しばらく待った。




やがて。




カチ。


秒針が——一つ進んだ。




朧は——興味を失った。


道場の隅へ——歩いていく。




水筒を——手に取る。


一口——飲む。




いつもと——同じ朝だった。




そのとき。


廊下から——足音が聞こえた。




コツ。


コツ。




朧は——顔を上げた。


障子が——開く。




鏡一だった。




「もう——始めていたか」




「はい」




「何時間やった?」




朧は——少し考えた。




「わかりません」




鏡一は——時計を見た。


そして——朧を見る。




「はじめよう」




「はい」




朧は——道場の中央へ戻った。


鏡一と——向かい合う。




「来い」




短い——言葉。




朧は——動かなかった。


鏡一も——動かない。




二人の間に——数メートルの距離がある。




何秒か——経った。


いや。


何十秒だったのかもしれない。




朧には——時間が、わからなかった。




鏡一が——一歩、踏み込んだ。




その瞬間。


朧の身体が——消えたように見えた。




一歩。


いや。


半歩。




鏡一の——右側へ。


手が——伸びる。


鏡一は——腕で受けた。




だが。


朧の身体は——すでに横へ回っていた。




肩。


肘。


腰。


すべてが——一つに繋がる。




鏡一の——重心が、僅かに崩れた。


朧は——そのまま止まった。




倒さない。


追撃もしない。




鏡一が——身体を戻す。


二人は——再び向かい合った。




「……」




鏡一は——何も言わなかった。


朧も——何も言わない。




やがて鏡一が——口を開いた。




「お前は」




そこで——止まった。




朧が——顔を上げる。




「何ですか?」




鏡一は——朧の目を見た。




感情が——ない。


恐怖も。


焦りも。


勝とうとする意志も。


負けたくないという意志も。




何も——ない。




ただ。


目の前にあるものを——見ている。




「……いや」




鏡一は——視線を外した。




「今日は——ここまでだ」




「はい」




朧は——素直に答えた。




鏡一が——道場を出ていく。


障子が——閉じる。




朧は——その背中を見送った。


何も——思わなかった。




寂しいとも。


もっと——教えてほしいとも。


思わなかった。




ただ。


次の——稽古がいつなのか。


それだけを——考えた。




朧は——一人になった道場で、再び構えた。


誰も——いない。


それでも——相手がいるように。




一歩。


無音。


もう一歩。


無音。




身体を——沈める。


拳を——出す。


止める。




蹴りを——出す。


止める。




相手の攻撃を——想定する。


避ける。


受ける。


崩す。


そして——止まる。




その——瞬間だった。


道場の——空気が変わった。




風が——止まった。


木々の——音が消えた。


鳥の——声も消えた。




朧は——気づかなかった。




ただ——構えたまま。


目の前を——見ていた。




壁に掛かった——時計。


秒針が——止まっていた。




一秒。


二秒。


三秒。




時間そのものが——忘れられたように。


道場が——静止していた。




そして。


カチ。


秒針が——動いた。




風が——戻った。


鳥が——鳴いた。




朧は——ゆっくりと構えを解いた。




「朝ご飯……」




小さく——呟いた。


それだけだった。




朧は——道場を出ていった。




誰も——知らない。


この少女の中で——何が起きているのか。


朧自身も——知らない。




ただ——父に教えられた技を。


今日も——繰り返している。




それが——朧の日常だった。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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