第109話 いつもの席
撫子の仕事場は——夜の街の奥にあった。
大通りから一本、外れた場所。
看板は——大きくない。
店名を示す文字が、控えめに灯っているだけだった。
「CLUB 紫苑」高級クラブ。
扉の向こうには——外とは違う時間が流れている。
午後六時三十分。
開店まで——まだ一時間以上ある。
それでも——撫子は、すでに店に入っていた。
更衣室。
鏡の前に座っている。
髪を整える。
化粧を確認する。
派手さを——求めているわけではない。
照明の下で——顔がどう見えるか。
店内を歩いたとき。
客の視線が——どこに止まるか。
それだけを——確認する。
最後に——小さく笑ってみる。
鏡の中の自分を見る。
「……よし」
それだけだった。
撫子は——人気のホステスだった。
撫子を指名する常連客も——多い。
毎週のように来る客。
月に一度、必ず顔を出す客。
出張の予定を、知らせてくる客。
「次はいついる?」
そう聞かれることも——珍しくなかった。
だが——撫子は、その人気を特別なものだとは、考えていなかった。
客が——自分を指名する理由。
それを——一つずつ覚えている。
好きな酒。
苦手な話題。
最近始めた趣味。
仕事の繁忙期。
家族の話をするときの表情。
そして——何を話したくないのか。
それが——一番重要だった。
店内へ出る。
まだ客のいないフロア。
テーブルを確認する。
グラスの位置。
椅子の角度。
照明の明るさ。
すべてが——整っている。
スタッフが——声を掛けた。
「今日も指名、多いですよ」
「そう」
撫子は——淡々と答えた。
「いつものお客様も?」
「はい。何名か」
「席は?」
「いつもの場所で」
撫子は——小さく頷いた。
それだけで——十分だった。
午後七時四十分。
最初の客が——入ってくる。
撫子は——笑顔になった。
「こんばんは」
声の高さ。
間の取り方。
相手が——一番安心する場所へ合わせる。
「今日も、来てくれたんですね」
客が——笑う。
「そりゃ、撫子さんに会いに来たからね」
「ありがとうございます。でも——お仕事、大丈夫でした?」
まず——相手の話を聞く。
自分の話は——後でいい。
それが——撫子のやり方だった。
別のテーブルから——声が掛かる。
「撫子さん、こっちにも顔出して」
「今行きます」
席を移る。
数分だけ話す。
戻る。
また別の席へ。
忙しい。
だが——動きに迷いがない。
誰が今、話したがっているのか。
誰が、静かに飲みたいのか。
誰が、今日は仕事で疲れているのか。
撫子は——それを見ている。
言葉より先に。
グラスを置く音。
視線。
姿勢。
そういう小さな変化から——判断する。
午後九時。
店内は——ほぼ満席になっていた。
「撫子さん、今日も人気だね」
同僚が——笑う。
撫子は——肩をすくめた。
「たまたま」
「またそれ言ってる」
笑い声。
撫子も——少しだけ笑った。
だが——すぐに客の方を見る。
入口が——開いた。
見慣れた顔だった。
常連客。
撫子は——一瞬で表情を変えた。
「いらっしゃいませ」
その声には——安心させる温度があった。
客も——嬉しそうに笑った。
「今日も忙しそうだね」
「おかげさまで」
撫子は——頭を下げた。
そして——席へ案内する。
何度も通っている客。
だからこそ——同じ接客はしない。
前回話していた仕事の続きを聞く。
先週変えた時計に気づく。
何気なく——体調を尋ねる。
すべては——小さな積み重ねだった。
午前零時。
店内の——熱気はまだ消えない。
撫子は——時計を見る。
疲れている。
それでも——表情には出さない。
人気があることは——楽なことではない。
期待される。
覚えられる。
そして——一度築いた信頼を、毎回維持しなければならない。
それが——仕事だった。
午前一時三十分。
最後の客を——見送った。
「また来るよ」
「はい。お待ちしています」
扉が閉まる。
静かになった店内。
撫子は——ようやく息を吐いた。
鏡の前へ戻る。
笑顔を——消す。
そこに残ったのは——少し疲れた顔だった。
だが——嫌ではなかった。
今日も——一日が終わった。
誰かの話を聞き。
誰かの気持ちを読み。
誰かの時間を——少しだけ軽くする。
それが——撫子の日常だった。
撫子は——店を出た。
夜の街は——まだ明るい。
その光の中を——一人で歩いていく。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




