第108話 咲く前の花
八月三十日(日) 午前十時二十分
葵の——仕事場は、ホテル宴会フロアの——さらに奥。
生花室だった。
冷えた——空気の中に。
切り立ての——花が、並んでいる。
芍薬。
スカシユリ。
トルコキキョウ。
木蓮。
どの花も——水を含み。
開花する——直前で、時間を止められていた。
葵は——この場所に。
もう——三時間いた。
作業台の——前。
剣山の——針が一本。
ほんの少しだけ——歪んでいた。
葵は——指先で、それを押し戻した。
力は——ほとんど使わない。
針が——元の位置へ戻る。
音は——出なかった。
葵は——確認すると。
すぐに——次の作業へ移った。
---
木蓮の枝を一本、切り取る。
長さは一二〇センチ。
表皮には——小さな傷が一つ。
葵は——迷わなかった。
鋏を——入れる。
刃は——斜め。
角度を——測ることはない。
だが——正確だった。
切り口を——一度だけ見る。
白い——断面。
問題ない。
葵は——そのまま剣山へ差した。
枝が——空間に、刺さる。
一歩——下がる。
全体を——見る。
――まだ、足りない。
---
葵は——花を扱う仕事をしている。
ホテルの——宴会装花。
式典。
披露宴。
企業パーティー。
その場に合わせて——花を選び。
空間を——作る。
だが——葵自身は。
自分の仕事を——「花を飾ること」だとは、考えていなかった。
葵が作るのは——目立つ花ではない。
その場所にいる人間の——視線。
その流れ。
立ち止まる——場所。
そして——空間全体のバランス。
誰かが——意識することなく。
「なんとなく、きれいだ」
そう感じる——状態。
それが——葵の仕事だった。
---
ユリを——一本。
木蓮の枝の——陰へ置く。
正面には——置かない。
入口から——十二メートル。
そこから——会場へ入る人間の視線を読む。
最初に——一点を見る。
そこから——右へ流れる。
その——途中。
「見えるか——見えないか」
その境界へ——ユリを置く。
葵は——少しだけ、首を傾けた。
問題ない。
芍薬を——三本。
一本だけ——数ミリ。
前へ出す。
それだけで——違った。
ただの——花の集合が。
ひとつの——「顔」になる。
葵は——黙って確認した。
視線を——外す。
戻す。
枝先へ——視線が落ちる。
狙い——通り。
そのとき。
扉が——開いた。
「先生。搬入の件ですが」
助手の——声。
葵は——振り返らない。
「南会場は——三点追加」
淡々と——答える。
「資材室に——あります」
「はい」
助手が——メモを取る。
そして——少し迷った。
「それと……」
葵の——手が止まる。
「依頼主が——もう少し華やかに、と」
一瞬。
生花室の——空気が止まった。
「華やか——とは」
葵が——聞く。
「色を——足してほしい、と」
葵は——窓を見る。
夕刻には——西日が入る。
今は——まだ朝。
だが——夕方の光は、もう計算に入っている。
色を——増やせば。
花は——光と競合する。
会場が——騒がしくなる。
空間の——輪郭が崩れる。
葵は——短く答えた。
「わかりました」
助手が——顔を上げる。
「芍薬を——三本追加します」
そして——続けた。
「配置は——こちらで決めます」
「……はい」
助手は——それ以上、何も言わなかった。
扉が——閉まる。
足音が——遠ざかっていく。
葵は——残った芍薬を手に取った。
予定には——なかった一本。
花弁は——まだ閉じている。
開く——直前。
夕刻。
おそらく——ちょうど満開になる。
――計算通り。
葵は——その一本を。
端の——花器へ差した。
誰も——気に留めない場所。
会場の——中心ではない。
視線が——集まる場所でもない。
それでも。
午後の——ある時間。
五分だけ。
西日が——そこへ入る。
その——瞬間。
花は——最も深い色になる。
誰かが——見る保証はない。
写真に——残る保証もない。
それでも——置いた。
理由は——ない。
……いや。
葵にとっては。
必要だから——置く。
それだけだった。
---
葵は——次の花器へ向かった。
芍薬の——位置を確認する。
ほんの——数ミリ。
花の——向きを変える。
それだけで——空間の印象が変わる。
葵は——満足するでもなく。
喜ぶでもなく。
ただ——確認した。
正しい。
それだけだった。
葵にとって——仕事とは。
そういうものだった。
誰かに——褒められる必要はない。
目立つ——必要もない。
そこにあるものが——あるべき場所にある。
それで——十分だった。
生花室の——時計が進む。
午前十時二十三分。
夕刻の——宴会まで。
まだ——時間はある。
葵は——次の花を手に取った。
冷たい——空気の中。
花だけが——静かに、開こうとしていた。
その——変化を。
葵は——誰よりも早く、見つけていた。
つづく…
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