第105話 選ばれし者の夢
深夜、あるいはそれ以前——時間の感覚はなかった。
桜が——舞っていた。
季節外れの——桜だった。
散り際の——花びらが、風もないのにひらひらと、舞い落ちていた。
古い——道場。
板張りの——床。
磨き込まれ、艶を——帯びていた。
何十年も——踏まれ続けてきたそんな重みが、そこにあった。
音は——なかった。
風の音も。
自分の——足音さえ。
すべてが——静寂の中に沈んでいた。
桃霞は——その道場の中央に立っていた。
自分が——なぜ、ここにいるのか。
わからなかった。
(ここは——どこ)
思考しようとしても——言葉がうまく、形を成さなかった。
夢だと——どこかで、わかっていた。
だが——夢にしてはあまりに、鮮明だった。
視界の——端。
白い——稽古着の人影が現れた。
女性だった。
歳の——見当はつかなかった。
若くも——見えた。
老いても——見えた。
そのどちらでも——ないようにも見えた。
顔立ちは——桃霞に、どこか似ていた。
だが——同時に、まったく違う何かを纏っていた。
桃霞は——動けなかった。
声も——出なかった。
ただ——その人影を、見つめることしかできなかった。
女性は——静かに近づいた。
足音は——なかった。
無音の——歩法。
桃霞の——知るあの技と、同じだった。
(この人——誰)
問いかけようとした。
だが——口が、開かなかった。
女性は——桃霞の目の前で、止まった。
じっと——見つめてきた。
「力は」
初めて——声が聞こえた。
低く——静かな声だった。
耳ではなく——直接頭の中に響くような。
「お前を——選んだ」
桃霞は——理解できなかった。
(力が——選んだって——)
(どういう——意味)
問いかけたかった。
だが——言葉は、出てこなかった。
女性は——それ以上説明しなかった。
続きを——語らなかった。
ただ——一歩、下がった。
その——手にいつの間にか、刀が握られていた。
白刃が——桜の花びらの間から、鈍く光った。
「構えなさい」
短く——言った。
桃霞は——混乱した。
(構える——って)
(何を——構えれば)
体は——動かなかった。
構えるための——動作すら、思いつかなかった。
女性が——刀を、振り上げた。
ゆっくりと——それでいて、逃れようのない速さで。
(待って——)
心の中だけで——叫んだ。
声には——ならなかった。
刀が——振り下ろされた。
その——瞬間。
視界が——真っ白になった。
――
目が——覚めた。
まぶたを——開いた。
見えたのは——見知らぬ景色だった。
ホテルの——天井ではなかった。
木々の——葉が、風に揺れていた。
朝の——光が、木漏れ日となって降り注いでいた。
鳥の——鳴き声が、聞こえた。
桃霞は——ベンチに座っていた。
大阪城——公園のベンチだった。
(え——)
思考が——追いつかなかった。
(なんで——ここに)
昨夜のことを——思い出そうとした。
控室。
「……ごめんなさい」
そう——言って、頭を下げた。
その後——部屋に戻った、はずだった。
そこから——記憶がなかった。
完全に——途切れていた。
(気づいたら——ここにいた)
自分の——服装を見た。
昨夜の——私服のままだった。
だが——裾に、土が付いていた。
靴も——汚れていた。
(歩いた——のか)
(どれくらい——歩いたんだろう)
わからなかった。
何時間——ここに座っていたのかも。
ポケットの中で——スマートフォンが、震えていた。
震え続けて——いたようだった。
取り出した。
画面が——着信の通知で、埋め尽くされていた。
莉恋——十二件。
苺——八件。
向日葵——五件。
若葉——三件。
未読の——メッセージが、数えきれないほど並んでいた。
「桃霞ちゃん、どこ——?」
「返事——して」
「心配してる」
「連絡——ください」
その——一つ一つを目で追いながら。
桃霞の中に——初めて強い焦りが生まれた。
(大変な——ことになってる)
(みんな——探してる)
心臓が——早く打ち始めた。
体温が——一気に上がったように感じた。
(早く——戻らなきゃ)
桃霞は——ベンチから立ち上がった。
足が——少し震えた。
だが——構わず歩き出した。
ホテルへの——道を、思い出そうとした。
方角も——距離も、はっきりしなかった。
ただ——大阪城が遠くに見える方向へ。
走り出した。
風が——顔に当たった。
息が——上がっていった。
(夢——だったのか)
(それとも——)
走りながら——桃霞の頭の中で、あの女性の声がまだ響いていた。
「力はお前を——選んだ」
「構えなさい」
意味は——まだ、わからなかった。
だが——ただの夢だとは、どうしても思えなかった。
大阪城公園の——朝が、桃霞の背後を静かに見送っていた。
つづく…
▼登場人物のイラストをpixivで公開中
https://www.pixiv.net/artworks/144793121




