第104話 返事のない扉
八月三十日(日) 午前六時十分
窓の——外が、白み始めていた。
莉恋は——ほとんど眠れないまま、朝を迎えていた。
体を——起こした。
体は——重かった。
だが——それ以上に、頭が冴えたままだった。
夜通し——同じ場面が、繰り返し蘇っていた。
洗面台の——鏡の前に立った。
自分の——顔を見た。
目の下に——薄い隈ができていた。
いつもの——莉恋の顔じゃなかった。
スマートフォンを——手に取った。
昨夜——開いたままの画面。
送信欄は——空白だった。
「大丈夫?」——消した。
「今日、ありがとう」——それも消した。
結局——何も送れなかった、その画面。
莉恋は——その空白を見つめた。
(ありがとう——)
その——一言が、どうしても言えなかった。
昨日から——ずっと。
言えない——理由は、わかっていた。
莉恋は——覚えていた。
あの、瞬間を。
乱入者の——ナイフが、自分へ向かって振り下ろされる、その直前を。
演出では——なかった。
莉恋には——わかっていた。
あの——殺意は——本物だった。
(あのまま——だったら、私は——やられていた)
想像するだけで——背筋が、冷たくなった。
あの——刃が、もしあとコンマ数秒——早かったら。
自分の——体に、何が起きていたか。
桃霞が——助けてくれた。
その事実は——揺るがなかった。
だから——本当なら。
真っ先に伝えるべき——言葉があった。
「ありがとう」
たったそれだけの——言葉。
なのに——言えなかった。
理由は——もう一つあった。
莉恋自身が——認めたくない理由。
昨日控室で——莉恋は桃霞に、近づけなかった。
体が——動かなかった。
理由が——わからないまま。
だが——今ならわかる。
莉恋は——桃霞を、怖いと感じていた。
命を——救ってくれた、その相手を。
(怖いと——思ってしまった)
(助けて、くれたのに——)
自己嫌悪が——胸の奥に、重く沈んだ。
命の——恩人に対して、抱いてはいけない感情。
それを——確かに、自分は抱いてしまった。
だが——一晩眠れないまま考え続けて。
莉恋の中で——少しずつ別の感情が、育っていった。
怖さより——今は、心配の方が勝っていた。
桃霞は——昨夜、あの控室で。
「……ごめんなさい」
とだけ言って——頭を下げていた。
何に対する——謝罪なのか。
誰も——聞けなかった。
(桃霞は——今、どんな気持ちで、いるんだろう)
(一人で——抱え込んで、いるのではないか)
自分が——感じた怖さ。
その何倍も——桃霞自身が今、辛い思いをしているはずだった。
莉恋は——鏡の中の自分を、もう一度見た。
隈の——残る顔。
だが——その目には、昨夜にはなかった強さが宿っていた。
(このままじゃ——だめだ)
(怖いから——って、逃げてちゃ)
スマートフォンを——もう一度見た。
送信欄は——まだ、空白だった。
だが——今度は、文字を打たなかった。
代わりに——決意した。
(今日は——ちゃんと、話そう)
(直接——会って)
(ありがとうって——ちゃんと言おう)
莉恋は——身支度を整えた。
鏡の中の——自分に、小さく頷いた。
部屋の——扉に、手をかけた。
一度——深呼吸をした。
そして——静かに、部屋を出た。
八月三十日(日) 午前七時三十分
朝食会場。
六人が——順番に、集まってきた。
苺が——一番に、席に着いた。
昨夜の——ことをまだ頭の中で、整理しきれないまま。
コーヒーを——一口飲んだ。
味は——あまり、感じなかった。
空も——静かに、席に着いた。
「おはよう」
いつもより——少し小さな声だった。
向日葵は——まだ少し、目が腫れていた。
昨夜——泣いたことを隠すように、パンを口に運んだ。
若葉は——タブレットを、持って来ていた。
だが——開かなかった。
ただ——机の上に、置いたままだった。
杏は——いつも通り、席に着いた。
だが——普段の軽口は、出てこなかった。
莉恋も——現れた。
目の隈を——うまく、隠していた。
だが——目には、昨夜にはなかった覚悟が宿っていた。
六人が——揃った。
だが——一人、足りなかった。
「桃霞ちゃん——まだかな」
向日葵が——言った。
「寝坊かな」
杏が——軽く答えた。
いつもの——冗談めいた口調に、しようとした。
だが——うまく笑えなかった。
十分が——過ぎた。
椅子が——一つ、空いたままだった。
会話は——ほとんど、なかった。
食器の——音だけが、静かに響いていた。
二十分が——過ぎた。
苺が——スマートフォンを、取り出した。
桃霞の——番号を呼び出した。
コール音が——鳴った。
一回。
二回。
三回。
出なかった。
苺は——一度切った。
もう一度——かけた。
同じだった。
呼び出し音が——虚しく、続くだけだった。
莉恋が——自分のスマートフォンを確認した。
昨夜——送れなかった、メッセージ画面。
今朝——一言だけ、送っていた。
「おはよう。朝食、一緒に食べよう」
既読が——付いていなかった。
莉恋の——胸の奥に、冷たいものが広がった。
「……既読、付いてない」
小さく——呟いた。
その——一言で。
テーブルの——空気が変わった。
若葉が——顔を上げた。
杏が——箸を止めた。
空の——表情が強張った。
向日葵が——不安げに、苺を見た。
「桃霞ちゃん——」
苺の——声に、緊張が混じった。
莉恋が——椅子から立ち上がった。
「迎えに——行く」
はっきりとした——声だった。
苺も——立ち上がった。
「私も——行く」
二人は——テーブルを離れた。
残りの——四人は、その背中を見送った。
エレベーターの——中。
莉恋は——何も、言わなかった。
苺も——黙っていた。
数字が——上がっていく、その表示だけを見つめていた。
七階。
扉が——開いた。
廊下を——早足で歩いた。
桃霞の——部屋番号の前に立った。
莉恋が——ノックした。
「桃霞——?」
返事は——なかった。
もう一度——ノックした。
強めに。
「桃霞、いる——?」
やはり——返事は、なかった。
苺が——ドアノブに、手をかけた。
回そうとした。
動かなかった。
鍵が——かかっていた。
莉恋と——苺は、顔を見合わせた。
言葉には——ならない不安が、二人の間に走った。
「桃霞——!」
莉恋の——声が、少し大きくなった。
ドアを——軽く叩いた。
廊下の——静けさの中。
返事のない——扉だけが、そこにあった。
つづく…
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