六日目
結婚六日目。
夕食を終えて部屋へ戻ろうとしたところで、アルベルトから「今夜は二人きりにならないか」と誘われた。
「……うん。私も二人がいい」
平静を装って答えたつもりだったけれど、昨日の夜を思い出した途端、アルベルトの顔をまともに見られなくなった。
花粉のせいで最後までいけなかったものの、昨日はキスをして、彼の服に手をかけるところまでいった。あのとき私と同じものをアルベルトも望んでくれていたのだとしたら、今夜の『二人きり』が何を意味しているのかくらい、さすがの私にも分かる。
五日前なら、恥ずかしさのあまり何か理由をつけて逃げていたかもしれない。
でも今は、昨日の続きをしたかった。
アルベルトに触れたいし、触れてほしい。そう思えるようになったことが少し嬉しくて、隣を歩く彼の手に自分から触れようか迷っていると、そのまま城の玄関まで連れてこられた。
外には馬車が待っていた。
「……どこか行くの?」
「ああ。君に見せたいものがあるんだ」
思っていた二人きりとは少し違ったけれど、アルベルトがわざわざ用意してくれたのだから悪い気はしない。それどころか、もしかすると別邸か何かを用意してくれたのではないかと期待してしまい、私は大人しく馬車へ乗り込んだ。
ところが街を抜けても馬車は止まらず、やがて窓の外から民家まで消えていった。
どうやら別邸は、随分と静かなところにあるらしい。
さらに進むと畑もなくなった。
まあ、王族の別邸なら人里から離れていることもあるのだろう。
そのうち道の両側が森になった。
(……別邸だよね?)
隣を見ると、アルベルトは上機嫌である。
聞いてしまえば楽しみを潰しそうなので黙っていたけれど、馬車が森の奥へ進むほど、私の中で想像していた豪華な別邸が小さくなっていき、最終的には山小屋くらいになった。
それでも見えてこない。
ようやく馬車が止まり、アルベルトに手を取られて降りた私は、目の前に広がっていた景色に息を呑んだ。
森の中に大きな湖があり、月明かりを受けた水面に星空がそのまま落ちている。風が渡るたびに光が細かく揺れ、城では聞いたこともないほど静かな夜の中で、木々の葉が擦れる音だけが耳に届いた。
「……綺麗」
「気に入ってくれた?」
「うん。すごく」
アルベルトが嬉しそうに笑ったので、それまで別邸の心配をしていたことが急にどうでもよくなった。
湖畔には敷物と食事が用意されていた。
夕食を済ませたばかりなのに、果物や焼き菓子をつまみながらアルベルトと話していると、不思議なくらい時間が早く過ぎていった。
考えてみれば、結婚してから本当に二人だけで過ごしたことはほとんどない。城にいれば侍女がいるし、廊下へ出れば兵士がいる。家族と食事をすれば私たちの新婚生活を面白そうに見られ、夜になれば今夜こそ何かあるのではないかと私自身が勝手に緊張していた。
ここには、それが何もなかった。
私とアルベルトしかいない。
「今日、騎士たちと話をしたんだ」
アルベルトは既婚の騎士から、夫婦になったあとも恋人だった頃のように二人だけで過ごす時間が大切なのだと教わったらしい。
「城では、いつも誰かが君のそばにいるだろう? だから今夜くらい、誰にも気を遣わずにマドレーヌと二人でいたかったんだ」
その言葉が、胸の奥へゆっくり沈んでいった。
この人は、私がどうしたら喜ぶのかをずっと考えてくれていたのだ。
熊を一人で仕留めた夜もそうだった。少し方向がおかしくなるだけで、アルベルトが最後に見ているのはいつだって私だった。
そう思うと無性に彼へ触れたくなり、私は敷物の上に置かれていたアルベルトの手へ自分の手を重ねた。
「マドレーヌ?」
「二人きりにしてくれて、ありがとう」
自分から言えたのが恥ずかしくて湖へ目を逸らしたけれど、すぐに手を握り返された。
夜が深くなるにつれて少し冷えてきたので、大きな毛布を二人で肩から掛けた。身体を寄せればアルベルトの温かさが伝わり、私はいつの間にか彼の肩へ頭を預けていた。
湖を眺めながら何を話していたのかは、もうよく覚えていない。
ただ、こんなふうに何も頑張らなくてもアルベルトの隣にいられるのなら、熊の毛皮を被ったり合コンを開いたりする必要なんて最初からなかったのだろう。
名前を呼ばれて顔を上げると、アルベルトの唇が触れた。
昨日よりずっと自然に目を閉じることができた。
一度離れてから、今度は私のほうから少しだけ距離を詰めると、アルベルトが笑ってもう一度キスをしてくれた。
毛布の中で腰に腕が回り、私も彼の胸元へ手を置く。
昨日の続きを思い出した。
胸の奥に燻っていたものがゆっくり熱を取り戻し、もっと近くへ行きたくなる。ここなら誰も来ないし、何も邪魔しない。アルベルトがわざわざ私を連れてきてくれた意味も、ようやく全部分かった気がした。
「今夜は朝まで二人きりだよ」
耳元でそう言われ、頬が勝手に熱くなった。
私もそのつもりだった。
昨日は途中までしかできなかったけれど、今日は花粉もない。お酒も飲んでいない。誰かが突然部屋へ入ってくる心配だってない。
あとは――。
そこまで考えたところで、ふと気づいた。
「ねえ、アルベルト」
「なんだい?」
「今夜、どこに泊まるの?」
尋ねると、アルベルトは何も答えなかった。
視線だけが私から湖へ移り、湖から森へ移り、最後に少し離れたところで待機している馬車へ向かった。
私も同じ順番で見た。
宿らしき建物はどこにもなかった。
「……もしかして、考えてなかった?」
「…………すまない」
思わず毛布の中で顔を覆った。
ここまで完璧だったのに。
星空も、食事も、二人きりになることも完璧に用意しておきながら、この人は寝る場所だけ忘れていた。
しかも今から城へ戻ったところで、着く頃にはとっくに夜が明けている。
どうしようもなくなった私たちは、結局そのまま湖畔で夜を明かすことになった。
初めのうちは毛布一枚でも平気だったけれど、夜が深くなるほど森の空気は冷えていく。身体を丸めていると、アルベルトが自分の上着まで私の肩へ掛けてくれた。
「アルベルトが寒いじゃない」
「私は平気だよ」
「平気な人は震えないでしょ」
仕方なく上着を二人の上から掛け直し、毛布の中で身体を寄せた。アルベルトの胸へ頬をつけると、すぐに背中へ腕が回ってくる。
思っていた夜とは随分違う。
それでも彼の胸元は暖かく、耳を澄ませば鼓動まで聞こえた。
「マドレーヌ」
「なに?」
「今日は楽しかった?」
「……うん」
それだけ答えると、抱きしめる腕が少しだけ強くなった。
きっと、それを聞きたくてここまで連れてきたのだ。
そう思ったら胸の奥に柔らかなものが広がり、私は毛布の中でさらに身体を寄せた。
「私も楽しかったよ、アルベルト」
今度は返事がなかった。
顔を上げてみると、もう寝ていた。
「……もう」
笑いながら文句を言ったものの、起こす気にはなれなかった。
アルベルトの胸へもう一度頬を戻し、私も目を閉じる。
五日間、どうにかしてこの人と繋がろうとしてきた。
なのに、こうして抱きしめられているだけで満たされてしまう自分が少しおかしかった。
もう少しだけ、このままでいたい。
そう思いながら眠りに落ちた私を翌朝起こしたのは、遠くから響いてきた御者の声だった。
「殿下ー! そろそろお戻りにならないと、朝議に間に合いません!」
目を開けても、アルベルトはまだ私を抱いたまま眠っていた。
起こさなければならない。
王子様なのだから、朝議に遅刻させるわけにはいかない。
分かっているのに、私は彼の腕の中でもう一度目を閉じた。
あと少しくらいなら、いいだろう。
結婚六日目――誰にも邪魔されなかったのに、失敗!




