七日目
結婚七日目。
昼食後、お母様からお茶に誘われた。
結婚してから何度か二人で話す機会はあったので、最初は特に気にしていなかった。ところが、近頃の城下の様子や昨日の湖の話をしていたはずなのに、いつの間にか話題は私とアルベルトの結婚生活へ移り、やがてお母様の口から『世継ぎ』という言葉が出てきた。
とうとう来たか、と思った。
アルベルトは王子なのだから、結婚すれば次に期待されるものくらい分かっていた。この国では貴族ですら家を残すことを重んじるのだから、王家ともなれば世継ぎは夫婦だけの問題ではない。
頭では理解している。
ただ、二十二年間を日本人の里子として生きてきた私には、結婚した途端に子どもを作ることが当然になる感覚までは、どうしても馴染まなかった。
私が生きていた日本では、結婚するかどうかも、子どもを持つかどうかも、本人たちが決めるものだった。男と女が結婚することだけが幸せの形でもなくなっていたし、子どもを持たない夫婦だって珍しくない。
その感覚を持ったまま、お母様から王家にとって世継ぎがどれほど重要なのかを聞かされていると、なんだか自分のお腹が急に王家の所有物になったような気がして、無意識にそこへ手を置いてしまった。
だからといって、子どもが欲しくないわけではない。
アルベルトとの子どもなら――と考えると、むしろ少し見てみたい気もする。
どちらに似るのだろう。
アルベルトに似た男の子なら、きっと綺麗な顔をしている。女の子だったらどうだろう。アルベルトが娘を抱いている姿なんて想像しただけで、たぶん死ぬほど甘やかすのが分かる。
そこまで考えて、私は慌てて紅茶を飲んだ。
何を想像しているんだ。
そもそも私たちは、まだその入口にすら立てていない。
この六日間、本人たちなりには相当頑張った。頑張った結果、熊が城へ運び込まれたり、酒盛りをしたり、花を大量に撤去したり、山奥で野宿したりしただけである。
それをお母様に説明する勇気はなかった。
私は世継ぎについて前向きに考えているとだけ答え、その場を切り抜けた。
◇
その夜、アルベルトとベッドに入ってからも、お母様との話が妙に頭から離れなかった。
いつもなら隣に座っただけで意識してしまうのに、今日はアルベルトの顔を見るたび、その向こうから『お世継ぎ』という言葉までついてくる。
別に嫌じゃないのだ。
昨日だってキスの先まで行きたかったし、今こうして隣にいるアルベルトに抱きしめられたら、たぶん嬉しい。
なのに、その先にまだ影も形もない子どもを待っている人たちがいると思うと、途端に落ち着かなくなる。
私はアルベルトとそうなりたいのであって、王家の仕事をするために今夜ここへ来たわけじゃない。
そんなことを考えている自分も面倒くさかった。
いつかアルベルトとの子どもが欲しいと思ったのも本当なのだから、お母様の望みと私の望みは、それほど違わないはずなのに。
それでも「早く」と言われた途端、素直に頷きたくなくなる。
我ながら、なんとも現代日本人らしい面倒くささを異世界まで持ってきたものである。
アルベルトから昼間に何かあったのかと聞かれ、私はお母様から世継ぎについて話されたことを打ち明けた。
てっきり、この国では当然のことだと言われると思っていた。
アルベルトにとって、世継ぎを残すことが王族として大切なのは分かっている。それでも、そのために私たちの関係を急ぐつもりはないらしい。
「子どもが欲しくて、君と結婚したわけじゃないからね」
この国で生まれ、王族として育った人の口から出たとは思えない言葉だった。
それどころか、私が不安なら何年かかったって構わないという。
さすがにそれは待たせすぎではないだろうか。
この世界へ来てから、私はずっとこちらの常識を覚える側だった。
貴族の作法も、身分の違いも、女性に求められる振る舞いも、日本にいた頃なら首を傾げるようなことまで、ここではそういうものなのだと飲み込んできた。
アルベルトとのことだけは、飲み込まなくていいらしい。
王子と妃ではなく、私とアルベルトのことだから、二人で決めればいい。
昼間から胸の奥に引っかかっていたものが、ようやく取れた気がした。
「……アルベルトって、意外と進んでるね」
「進んでる?」
「なんでもない」
説明しても分からないだろう。
私は少しだけ笑って、今度は自分からアルベルトへ身体を寄せた。
抱きしめてほしいと思ったから、そうした。
すぐに腕が背中へ回ってくる。
それだけで昼間までの息苦しさが消えていき、私は彼の胸元へ頬をつけた。
急がなくていいと言われたら、不思議なもので、さっきまでより近づきたくなった。
顔を上げるとアルベルトと目が合った。
昨日までなら、ここからどうすれば先へ進めるのかを考えていた。今日はそんなことを考えず、そのまま唇を重ねた。
一度離れて、また近づく。
何度か繰り返しているうちに恥ずかしさも薄れ、アルベルトの胸に置いていた手を首へ回した。背中を撫でる手も心地よくて、身体の力が少しずつ抜けていく。
別に今夜、何かを成し遂げなくてもいい。
そう思えるだけで、こんなに楽なのか。
唇が離れると、私はそのままアルベルトの胸へ顔を埋めた。
「今日はこのまま寝たい」
「ああ」
短い返事と一緒に髪を撫でられた。
目を閉じると、額にキスが落ちてくる。
私は布団の中でアルベルトの手を探し、指を絡めた。
初夜はまだだった。
それでも、今日を失敗だとは少しも思わなかった。
◇
翌朝、アルベルトと一緒に朝食へ向かうと、お母様が待っていた。
昨日のことがあるので少し気まずかったけれど、アルベルトは普段と変わらず、そのまま席についた。
お母様から昨夜はどうだったのかと遠回しに尋ねられ、私は答えに困った。
するとアルベルトが代わりに、昨日私が世継ぎのことで悩んでいたこと、自分たちは焦らず二人のペースで夫婦になっていくつもりだということを話してくれた。
昨日の夜と同じ言葉だった。
やっぱりこの人でよかった。
そう思いながら隣で聞いていたのだけれど、お母様の顔から笑顔が消えていくことには気づかなかった。
「ですから母上、マドレーヌを急かすようなことは今後――」
「あなたがそんなんでどうするんです!」
食堂が静まり返った。
アルベルトの手からパンが落ちた。
「女性の気持ちを尊重するのは結構! 大切にするのも結構! だからといって、妻に手も出さずに一週間も何をしているのです!」
アルベルトが何か答えようとしたけれど、お母様は止まらなかった。
王子として世継ぎをどう考えているのか以前に、好きで結婚した女性を毎晩隣に寝かせておきながら、いつまで『ゆっくり』しているつもりなのか。
昨日まで私へ向いていたお世継ぎへの圧力が、今日は綺麗さっぱりアルベルトへ向いていた。
しかも強い。めちゃくちゃ強いうえに、息子の反論など聞く気もないゴリ押しである。
昨日の夜、あれほど格好よく私を安心させてくれた王子様はどこへ行ってしまったのか。隣に座っているアルベルトは何度か口を開こうとしているものの、そのたびにお母様から正論なのか暴論なのかよく分からない勢いで押し返され、とうとう助けを求めるように私を見た。
無理。
私だって昨日、この人から「二人のペースでいい」と言われて感動したばかりなのだ。援護してあげたい気持ちは山々だけれど、今のお母様を相手にできるほど強くない。
「アルベルト!」
「……はい」
「今夜こそ、しっかりなさい!」
「…………はい」
ついに折れた。
王子として育ち、熊を一人で仕留めるくらいには勇敢な男が、母親には勝てなかったらしい。
テーブルの下でそっとアルベルトの手を握ると、すぐに握り返された。その力がいつもより少し強かったので、笑いそうになるのを堪えながら私も握り返す。
私たちのペースでゆっくり近づいていこうと決めてから、まだ半日も経っていない。
結婚七日目――お母様のゴリ押しにより、早くも失敗!




